チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

チェインブレーカーの図案及び印刷状況

2008年01月03日 10時41分13秒 | スロヴェニア切手
チェインブレーカーの図案及び印刷状況

チェインブレーカーの図案及び印刷状況に関して、「Priručnik Maraka Jugoslavenskih Zemalja, vol.4, 1945, Zagreb (Croatia)、翻訳:ユーゴスラヴィア切手ハンドブック 第4巻」からご紹介いたします。

p.12-30 特徴と印刷方式

これらの切手(訳注: スロヴェニアのチェンインブレーカー)のデザインはリュブリャナの芸術家Ivan Vavpotič(イヴァン・ヴァヴポティッチュ)教授により作成された。
3~40 vinar には奴隷が描かれており、召使いの状態を表わす鎖を切っている。このことよりスロヴェニアのこの切手はドイツ語でKettensprenger (鎖切り)(訳注: 英語ではChainbreakerチェンインブレーカー)と名付けられている。
より詳しく述べると、3~15 vinar の小型切手には上半身のみが描かれ、20~40 vinarの大型切手には全身が描かれている。
50~60 vinarの額面では、3羽のタカと寓意的な女性が描かれている。
1~2 Kronenには、平和のキューピットが(平和の象徴である)シュロの枝を持って、廃墟と頭蓋骨の上にいる図案が描かれ、5~20 Kronenは(訳注:セルビア王国の)Peter王の図案である。

印刷技術には石版と凸版がある。
石版の3~40 vinarと15, 20 Kronenは、リュブリャナのI. Blazniks Nachfolger印刷所で印刷され、全て目打ち11 1/2で目打ちを行われた。
凸版の3~40 vinarと50 vinar~10 Kronenは、リュブリャナのJugoslawischen DruckereiとウィーンのA. Reisser Nachfolgernで印刷され、11 1/2、11、のこぎりルレット、直線ルレットで目打ちが行われ、コンパウンド目打ちも存在する。

この切手が印刷された状況について、(訳注:チェインブレーカーの図案を描いた)Vavpotič(ヴァヴポティッチュ)は、彼の論文「わずかな自己批判」で以下のように述べている:

『作者自身によりその作品について書かねばならないのはつらいことである。特に私の場合には、正直であろうとした場合、やむを得ずすることは引き裂かれるような思いである。
私の言うことを信じて欲しいのだが、私が作者であることを否定するのが一番好きなのである。私が作者としての誇りを認めることができるのは2枚の切手、すなわち1及び2 Kronenのみである。
(戦争による)荒廃状態にも責任がある、また私はチェインブレーカーを見下していないことを確信して自らを慰めた。
あの頃は、ものすごく急いでいた。郵便局には切手の在庫がほんの少しで、印刷所にもほとんど在庫がなく、インクもワニスもなく、糊も紙もない状態で、いわば何もないところから作り出さねばならなかった。
そしてその上、委員会は多数の原案の中より「チェインブレーカー」を芸術的・精神的観点からはるかに優れているものとして選んだのであり、それはちょうど不運な男が鎖を切るというものであり、調子の良い象徴的な大衆受けのするものであり、それ以上の何物でもあり得なかった。
私がBlaznik印刷所の小部屋で石版の上に最初のチェインブレーカーを描いた時の急ぎの作図の記録であった。
しかしながら、短期間に最初の1000枚の切手を多くの人に送ったのであるが、それは印刷所の技術主任H. Valaškoのすぐれた技術と、郵政局長H. I. Podgornikが急がせたせいであり、まるで天使が私たちの仕事を監視しているかのようであった。

私がパリからの帰途、(訳注: スイスの)ローザンヌを通っている時に駅で買ったローザンヌ新聞の郵趣記事を読んでいると、スロヴェニアの国民政権の最初の切手について書かれており、私のチェインブレーカーを非常にほめていたのを読んだとき、私は償いを身をもって知った。
スイス人の専門家の賞賛にもかかわらず、私は喜べなかった。
石版の最初のセットでさえも許せなかったのに、その後---神よ許したまえ---大量の凸版印刷の製造が始った時に、私はそれを知りさえしなかったので、私は「いけにえ」とされたのであり、私はこの「ろくでもないもの」を決して作り出したのではない。
そして、凸版、特にウィーン印刷に関しては、この頭痛の種を我慢しなければならず、この汚点がアメリカのどこかのオペレッタ風の共和国の封筒に貼られたり、あるいは貧乏人に小銭の代用で贈るのにはひょっとして良いものではないかと思っていた。

チェインブレーカーと同時期に新聞切手と不足切手もあり、それらは最初は本物の石版で、次いで(金属などに図案を)彫り込んで印刷された(訳注: 凸版印刷のことだと考えられます)。
インク不足のために、新聞切手は残念ながらかなり退屈な灰色で印刷されたため、全く魅力がなかった。
私は子供のキューピットを若い自由な郵便のシンボルとして描いたのであり、他の色で印刷されていたならばそんなに悪いものではなく、きらびやかで好まれていたであろう。若々しさと灰色は全く似つかわしくない。

不足切手は冷や汗もので生まれた。
下図では十分にエレガントで装飾的なモチーフを現代装飾の感覚で作成していたが、印刷では完全に失敗に終わった。私は関係ないのだが、ひどい赤インクのせいで元々の図案の繊細さは壊されてしまい、私の悩みの種なのだが、5 Kronenの図案も壊されてしまった。

Blazniks印刷所と石版では、このひどい版ではもはや要求に応えられなくなり、鉛版と凸版を手配しなければならなくなった(訳注:恐らく郵便料金値上げによる高額面の切手の需要が発生したことを意味していると推定される)。そのため間もなくチェインブレーカーの他に50, 60 vinar, 1, 2, 5 KronenがJugoslawischen Druckereiで凸版で印刷された。
最初の鉛版をAngererが仕上げ、最初の印刷はもちろん素晴らしく、一目見て彼は喜び、Angererは今日もなお誇らしく思い続けている。その技術は、引き続く高額面の印刷でも失われなかった。
そして、後にチェインブレーカーについて世間で言われたことに関しては、特に後期ウィーン印刷の海外向けのものに関しては(訳注: 恐らく海外向け封書料金用の切手のことだと推定されます)、私はウィーンの評論家と同意見である。

50, 60 vinarのシンボルに関しては、特に注釈の必要はない。それはSokol祭りのポスターのモチーフの変形であり、明らかな比ゆである。しかしながら私はそれにあまり満足しておらず、飽き飽きしており、書き込みが多すぎ、模様が多すぎ表現がないのである。

私が切手に対して求め願っていること、すなわち装飾的で表現がありシンボル的であることは、1, 2 Kronenでは良く仕上がっている。そして、とにかく誰かがそれをスケッチするならば、私は綿密で適切な批評家としてほめるであろう。私が残りのものもこの様なスタイルのデザインにしていたなら! 私はめったに自分自身に満足しないが、しかしこれらの生みの親であることに喜びを感じている。
非常に古いスラブのモチーフの現代的模様の中のデザインの1番目の枠の中に、平和の象徴であるシュロの葉を手に持ち、ドクロと廃墟から成長する子供を描き、その下に様式化した木を配置した。2番目の枠の中に初めて平和の天使である男の子を配置することにした。それは、戦争、火災、犠牲、廃墟の中から生まれた平和と解放の天使であり、死から生まれた生命であり、祖国解放のために昼間にドクロの上に歩き出そうとしている。
(訳注:スロヴェニア人が多く住んでいたソチャ川流域は、第一次世界大戦でオーストリア軍とイタリア軍の長期に渡る戦闘により徹底的に破壊され廃墟となりましたので、そのことを表わしていると思われます。)

5 Kronenについては既に述べたように色がひどい。私が差し当たり描いた肖像が良いものにならなかったのは残念である。可能なことを私は行ったのである。私はとりわけ美しくしなければならなかった5 Kronen切手が失敗したのは残念である(訳注: 5 Kronen切手は、新しい支配者であるセルビアのPeter国王の肖像ですから美しく仕上げたかったようです)。

もし私がいつか生きている間に切手のデザインを描かなければならない場合には、私はそのデザインを白日のもとにさらしベルンのコンベンションに展示する前に、何千回も見直し調べることを誓う。』
(Ivan Vavpotič(イヴァン・ヴァヴポティッチュ)教授の文章を終わる)


収集家は、これらの切手が3つの印刷所と2つの方式で製造されたことに興味を持っている。
一方ではそれが原因で、多くの正規の面白い変種が生まれ、無意識的に収集家の多くが専門的に研究しようという願望を持っているが、他方ではその製法が複雑な専門分野を作り出している。
今日では石版と凸版が使用されたことが明らかとなっている。
(訳注: 石版印刷を行ったリュブリャナの)Blazniks印刷所は、需要を満たすために十分な量の切手を供給できなかったので、(訳注:リュブリャナの)Jugoslawischen Druckereiは凸版で製造しなければならなかった。
そして、Jugoslawischen Druckereiの凸版の他に、ウィーンのReisser印刷所の凸版も使用されたことについてはA. Jugの説明からうかがい知ることができる(「スロヴェニア1919年のチェインブレーカー切手についての未知のこと」, Donaupost, 1931年)。

Jugは郵政局長d.R.P.の説明を引用している:
『リュブリャナでのストライキの発生後、切手印刷のストライキを終結させるために、まず初めに当時のリュブリャナ州政府により郵政局と凸版印刷所代表との交渉が行われた。
交渉が不成功に終わったので、郵政局は3人の郵政局役人と1人の下級役人からなる委員会に直ちに命令を出し、ウィーンに行って適切な印刷所を見つけ、切手を新たに印刷させるようにさせた。
ウィーンでうまく行かなければ、委員会はすぐにプラハに行き切手の印刷を行うはずだった。委員会と同時にリュブリャナのJugoslawischen Druckereiの所長も仕事でウィーンに行った。
所長は委員会と一緒に、最初のリュブリャナ凸版の鉛版を仕上げたウィーンIV. Viktorgasse 14のA. Krampolek写真製版技術会社へ行った。その会社との協議の後、A. Reisser Nachfolger印刷所を印刷実施に選んだ。

この印刷所で数日間大急ぎで切手を製造した後で、どのようにしてかは不明だが、印刷所の従業員は、凸版印刷所のストライキがリュブリャナで発生したので、この切手の製造がA. Reisserで行われることに決まったことが知らされ、連帯を示すために直ぐにストライキに入ってしまった。
委員会は大ピンチにおちいったと考え、ユーゴスラヴィア領事館に調停を依頼した。同時に委員会は直接労働者評議会とも交渉した。この結果、ついに切手は(訳注:セルビアの)ベオグラードの郵政省へ送ると決定したと声明が出された。
印刷所の従業員にこれを信じ込ませるために、委員会は宛て先の住所を「ベオグラードの王国郵政省」と印刷させておいて、実際は印刷期間中ずーっとリュブリャナへ全て送った。
ベオグラード郵政省宛ての荷物をリュブリャナに持っていくために、委員会はウィーン南駅の駅長の仲介で、その都度2等車の1つのコンパートメントの8座席を借り切った。このコンパートメントに小包(毎回40~50個)を窓から委員会の同行する役人に渡して入れ、リュブリャナに輸送した。』

さらに所長Pの説明を引用する:
『1次リュブリャナ凸版用の紙のストックはウィーン製だけではなく、リュブリャナのJugoslawischen Druckereiもかなりの量の紙のストックを持っており、そしてさらにVevčeの製紙工場から取り寄せた。』

「印刷量」の章の個々の印刷量の記録を参照すると、切手印刷に従事していた3つの印刷所が製造した切手を郵便経済局へいつ・どのように渡したかは明らかである。
この記述は、リュブリャナの2つの場所とは別のウィーンでの印刷に関しては、リュブリャナでの凸版印刷所ストライキのみの責任ではないことを示しており、そしてこの記録によりA. Jugが出版した所長Pの記述も受け入れることができる。


備考:50, 60 vinarの図案Sokolについて
スラブ民族の体育の祭典Sokolは、チェコスロヴァキアとユーゴスラヴィア、そして両国からの移民の多いアメリカで盛んに行われており、その絵葉書とラベルは、下記のホームページ
http://alphabetilately.com/sokol/index.html
に主としてチェコのものが掲載されており、その中にユーゴスラヴィアのものも含まれています。
このホームページには、Sokolについて次のように記載されています:
The word "Sokol" means falcon, a symbol of freedom among Slavs at the time.
『言葉「Sokol」はタカを意味しており、その当時のスラヴ民族の自由の象徴です。』
これらの絵葉書やラベル図案の中には、タカと国家を象徴する女神像が見られ、スロヴェニアのチェインブレーカーの50, 60 vinarのデザインの構図が見られます。

ユーゴスラヴィアの絵葉書およびラベルは下記のものがネットに掲載されています:
Zagreb - 1911 - second Croatian Sokol Slet http://alphabetilately.com/sokol/1911.html
Serbia, Maribor (Slovenia) http://alphabetilately.com/sokol/1920a.html
Osijek (Croatia) http://alphabetilately.com/sokol/1921.html
Vršac (Vojvodina), Ljubljana (Slovenia) http://alphabetilately.com/sokol/1922.html
このリュブリャナの絵葉書には、国家を象徴する女神像とタカが描かれています。
Sarajevo (Bosnia), Zagreb (Croatia) http://alphabetilately.com/sokol/1924.html
Beograd (Yugoslavia) http://alphabetilately.com/sokol/1930.html
Ljubljana (Yugoslavia) http://alphabetilately.com/sokol/1933.html
Subotica (Yugoslavia) http://alphabetilately.com/sokol/1936.html


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1 コメント

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チェインブレーカーだったんですね。 (マーク)
2008-01-13 02:31:56
初めまして。
子供の頃に切手コレクションしていたのですが
最近自分の子供に見せている時に海外の切手が
多いので、色々その国の話をしてあげるのが日課に
なりました。

今日久しぶりに古いブックを開くと昔調べてみた
古い切手が出てきました。
一度調べた時に1919年ユーゴスラビアの
スロベニア地方で発行のローカル切手と解りましたが
それ以上の情報は得られませんでした。

今日こちらのブログにたまたま行き当たり、チェイン
ブレーカーという切手である事が解りました。
詳細な当時の印刷状況に郵便の歴史と詳しく読ませて
頂き、ありがとうございました。

一地方についての詳しい内容でびっくりです。
当時の様子が見て取れるようで、明日子供に聞かせて
あげようと思ってます。
ありがとうございました。

私の所有は、15と書いてある奴隷の図柄です。
URLのところのブログにアップしてます。
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