ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

竹内英典 伝記 思潮社2023

2023-12-26 21:36:13 | エッセイ
 竹内英典氏は、書物のなかに住まう人、というべきであろう。
 あるいは、薄暗い図書館の書棚をめぐって、読み親しんだ本を手に取って、その一行から詩を編み出す人である。書物のなかの、大方の人々からは「見捨てられたままの一行」(冒頭の「伝記1」より)を拾い集め、書きとめる司書であり、書記である。
 この『伝記』という詩集は、竹内氏に先立って、人間の歴史の中で書物のなかに身を隠していた人々の紡ぐ物語を掬いとった記録である、と言ってみたい。
 たとえば、2編目の「ゆめのあと」

枯れ野に
それはあったのか

細い道をとおり
ゆめのあとを
掘ったのか
細い道をとおった人の
ゆめのあとをたどりたどり
掘ったのか

なかったものに
あったものを
見いだしたのか

あったものに
なかったものを
見たのか

待ったのか
過ぎていったものを
まだ来ない
あのものを

地からも
空(くう)からも
時から時へ延々と名づけてきた
どの位置からも
うたからも
呟きの
声からも
呼ぶ

だが
相対のなかの
ひとつの意志を
ただひとつの絶対の意志に変え
顔をつくり
群れをつくり
必然を装い
時を
襲ってくるもの
一個の林檎をもぎとった
意志の行方よ
幻想の地よ
地の歴史よ
だが
ここを離れて
何処を(全編)

 この詩は、芭蕉の高名な、夏の無常と冬の無常と対になったかのような二つの句を踏まえたに違いないと、当たりをつけて読み進めると、末尾に、氏自身の謎解きが明示されている。

*松尾芭蕉の次の二句に喚起された。
  夏草や兵どもが夢の跡
  旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

 しかし、参照文献は、それのみにとどまらない。
 明示されてはいないが、少なくとも、旧約聖書の創世記、新約聖書のヨハネ書、般若心経の色即是空、劇作家ベケットの『ゴドーを待ちながら』、「アンガージュマン(参加)」を唱える哲学者サルトルの『実存主義とは何か』など、歴史の始まりから洋の東西を問わず、氏の逍遙は涯がない。

 氏は、「あとがき」に「意図して多くの著書、映画等から引用した。それらはその時代を表わす〈伝記〉であり、歴史でもあると思ったからである」と記す。
 詩集冒頭から、各作品の本文と末尾の注に挙げられる人名を、順に記せば、次の通りとなる。詩人、作家、映画監督、劇作家、画家、そして、作品中の登場人物もあり、私の知らない人物も含まれる。
 オイディプス、ボードレール、アン・マイクルズ、サミュエル・ベケット、シェヘラザード(千夜一夜物語の語り手)、ジャコモ・レオパルディ、イヴァン・カラマーゾフ、ジャン=リュック・ゴダール、黒沢明、ジョルジュ・ルオー、ジャン・アヌイ、マルグリット・デュラス、ウィアーム・シマヴ・ペデルカーン、オサーマ・モハンメド、木下順二、アラン・レネ、ポール・エリュアール、フェルメール。
 特に、現代の詩人、藤井貞和と倉橋健一の二人については、それぞれのある詩句に出会って以来、「お二人のそれぞれを各章の冒頭に引用させていただいてその章を始める、そのような詩集を編みたいと思うようになった」と述べるとおりのことである。この詩集は、ふたりに捧げられたものといっていいのだと思う。

 詩集の後半から、もう1編の詩を紹介したい。1~3の三つの部分からなる「片影」から「2八月の庭」
 この詩は、私は、明確に誰のとは言い当てることはできないが、何か戦前の日本の恋愛小説の一節が参照されているようにも思える。帽子が風に飛ばされて青空のなかに舞うアニメーションを思い浮かべては、また違うのだろうが。

庭を横切っていったのは誰であったろう
大揚羽であったかもしれない
息をつめて庭に出ると
垣根のあちこちについ冬の終わりに夫を亡くした(確か七十をこえたばかりの)女性が剪定鋏を手にこちらに微笑みをむけていた
過ぎ去っていく何かを見ませんでしたか?という問いを急いでのみ込み会釈をかえすと
そのひとは微笑んだ姿のまま斜めうえを見あげうなずいた
誘われて目を向けるとそこには
葉や花を重たげに揺らしている百日紅の枝の隙間から僅かに
空が見えているだけであった

 この詩句については、美しい情景に嘆息していればいいというふうに思える。あるいは、竹内氏の直接の体験を言葉にしたものであろうか?


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