ぼくは行かない どこへも
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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

佐藤竜一 海が消えた 陸前高田と東日本大震災 ハーベスト社

2016-08-13 00:02:15 | エッセイ

 もうひとつの副題が「宮沢賢治と大船渡線」。

 佐藤氏は、陸前高田出身、一関市在住、岩手大学で文学を教えていらっしゃるとのこと。1958年生まれ、高校からは一関一高に進まれ、法政大学法学部を卒業されている。宮沢賢治研究の専門家らしく、賢治に関する著書も複数ものされている。

 その佐藤氏が、震災後の陸前高田を、陸前高田で生きているひとびとを紹介したルポルタージュ。

 第一章は、「高田松原と奇跡の一本松」。

 

 「東日本大震災後、陸前高田を全国的に有名にしたのは高田松原周辺で唯一残った、奇跡の一本松だった。」(14ページ)

 

 高田松原は、気仙郡高田村の町人菅野杢乃助が、仙台藩の命を受け、寛文7年(1667年)に、松の苗木を浜に植えたのが始まりだという。防潮林であり、津波の予防を目的にしたものであると。

 そして、いま、この松が、陸前高田の人々の希望の象徴となっている。

 

 「かつて、七万本の松が生えていた高田松原には現在、奇跡の一本松以外に、松は残されていない。/逆に言えば、奇跡の一本松が残ったからこそ、希望を持ち、未来へとつなぐ松原を育てていこうという活動が根付いたともいえる。」(44ページ)

 

 この章では、佐藤氏の住む一関から、生まれ故郷である陸前高田に向かう途上、大船渡線の線路の繋がっている気仙沼で列車を降りて、友人が迎えに来た車で向かう途上の気仙沼のまちの風景、例の第18共徳丸の打ち上げられた光景が描かれ、年間百万人もの海水浴客が訪れていた高田松原の震災以前の様子、宮沢賢治の詩碑のこと、石川啄木が訪れたこと、市民による高田松原を守る会の活動など紹介されている。

 第二章「それぞれの大震災」では、同級生の画家 鷺悦太郎のこと、地元の醤油醸造会社の社長 新沼茂幸、ジャズ喫茶ジョニーの照井由紀子、そば屋やぶ屋、おかし工房木村屋、酒屋いわ井の磐井正篤らが紹介されている。

 鷲さんは、この本の表紙を描かれた方とのことだが、実は描かれているモデルが、気仙沼での教室で指導を受けている方とのことで、私もよく存じ上げている方であった。先日その当人にばったりお会いすることがあって、どうも、よく似ているというか、そうだとしか思えないんだがと、確認したところ確かにそのとおりだとのことであった。絵の先生なんです、と。

 陸前高田で、醤油の醸造と言えば、八木澤商店のことは存じ上げていて、震災後の再興に努力されていることは、気仙沼にいても伝わってきていたところであったが、新沼さんのヤマニ醤油については、あまり、存じ上げなかった。

 「木桶にこだわっ」た醤油づくりと、「気仙沼の削り節業者から専用の削り節を仕入れて製造し」たつゆが定評あったとのことである。

 照井由紀子さんは、われわれの詩の同人誌霧笛の仲間である。いま、ひとりで、ジョニーを切り盛りされている。

 震災の後、すべてが流されてとほうに暮れていたが、

 

 「インターネットで由紀子の現状を知った友人・知人たちがレコードや食器などを送ってくれた。面識のない人から第一中学校気付で励ましの手紙を受け取ったときはうれしかった。…(中略)…自分を必要としてくれる人がいる。そのことを確認でき、由紀子は新たな出発をしようと思った。…(中略)…店は再開され、以前の常連客が来てくれるようになった。」(86ページ)

 

 震災の後、9月発行の霧笛21号には、寄稿いただいておらず、あけて2月発行となった22号に作品「月日」を寄せていただいた。年が明けるころ、ようやく、精神的にも書ける状態となったということなのだろう。21号の時点では、とにもかくにも書ける同人から始めよう、と語らったものだ。

 やぶ屋、木村屋は、高田に行けばよく立ち寄るひいきの店である。

 そして、磐井正徳は、気仙沼高校の同級生。当時、北は高田さらには大船渡、西側の室根、千厩と、大船渡線の汽車通と称して、近隣の岩手県域の優秀な生徒は、気仙沼高校に集まってきたということになっていて、たとえば、陸前高田からは、俳優の村上弘明も、気仙沼高校に通学していた。磐井は、現在、陸前高田の商工業者のリーダーとして奮闘しているとのことである。(ここで、ちょっと注記しておくと、佐藤氏は、磐井を高田高校の卒業生と書いているが、そこは勘違いであるということになる。)

 

 (がれきの撤去を続けた地元の建設業者の)「ひとりが磐井にこう言ったのだ。『磐井さん、酒はないか』。磐井は驚いた。その人が下戸、ふだん酒を飲まない人だったからだ。酒を飲むことなしでは、こんな仕事を続けられない。彼はそうも言った。/そうか、酒はやはり必要なんだ。世の中で降りかかってくるさまざまな悲しみ、それを酒を飲むことで一瞬でも忘れられるのなら、酒を売る意味もあるのではないか。磐井は商売を再開する決意を固めた。」(98ページ)

 

 この章では、津波で甚大な被害を受けたあとに、陸前高田の人々が、どう振る舞ったか、というよりは、むしろ積極的にどのようにその惨状に立ち向かっていったかが描かれている、と言ってよいと思う。立ち上がっていくさまが、見事に描かれている。

 第三章「死者を悼む」では、氏の近い係累の方々の記録、記憶を纏められている。4年を経過して、ようやく記すことのできたレクイエム。佐藤氏の鎮魂歌。

 第四章「宮沢賢治と大船渡線」は、震災の記録からの少し離れて、氏の専門である宮沢賢治のこと。大船渡線陸中松川駅に隣接する石灰工場で、セールスマンとして働いた晩年の賢治と、社長である鈴木東蔵との深いかかわりを描く。

 これについては、氏は既に2008年に集英社新書から「宮澤賢治 あるセールスマンの生と死」をものされているとのこと。ここでは、あらためて、大船渡線建設等の推移に絡めながら描いている。

 ということで、この書物は、佐藤氏の描く東日本大震災後の陸前高田の、すぐれたルポルタージュである。現在は住んでいないとはいえ、ご自身が生まれ育ち、慣れ親しんだまち、慣れ親しんだひとびと。

 私が詩集「湾Ⅲ2011~14」で気仙沼を描き、佐藤氏が、この書物で陸前高田描いた。それは、ある意味では同じ行為に他ならない。詩とルポルタージュと形は違うと言いながら。

 と、以上がこの書物の紹介ということになるが、奇跡の一本松については、私として、一点、書き記しておかなければならないことがある。

 実は、私の父方の祖母は、陸前高田市気仙町今泉のひとで、生家は松坂といい、藩政期までは、仙台藩金山下代として、陸前高田の玉山金山を差配していた家である。その祖先に松坂新右衛門というひとがいて、このひとが、実は、高田松原の半分を造ったひとであるということになっている。(この松坂新右衛門は、現在の気仙沼市本吉町山田の芳賀という家から入り婿として迎えられたということである。どちらも当時の鉱山関係の職能の家であったつながりなのだろう。)

 高田松原は、陸前高田市の高田町分の高田松原と、気仙町分の気仙松原のふたつの部分から構成されており、その気仙松原の分は、松坂家の祖先が植えたものだ。タイミングとしては、高田が先で、気仙の分は、その後であることはそのとおりである。

 高田のユースホステルのかげにあったことから残ったという奇跡の一本松は、気仙松原の部分にある。新右衛門が植えた時代よりは新しかったということだが、松ぼっくりから落ちた種からの実生であるものか、その後の植林によるものなのか、定かではないにしても、菅野杢乃助の植林したエリアのものではないということも確かなことだ。

 このことは、私自身が、松坂新右衛門の子孫であるという特別な事情があることから、ひとこと注記しておかなければということであって、この佐藤氏の著作の構成上、気仙松原のことに触れていないことをどうこう批判しようという趣旨ではない。いちばんの始めのことと、現在のことを描く、その間のエピソードをどこまで拾い上げるか。それは、書物の趣旨と分量から、おのずと定まることである。


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