ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

佐々木洋一 でんげん 思潮社2023

2023-10-25 11:38:33 | エッセイ
 佐々木洋一は詩人である。『でんげん』は、その最新の詩集である。
 〈でんげん〉とは何だろう?
 電源だろうか、今の世で、〈でんげん〉と耳にして、まず思い浮かぶのは〈電源〉に違いない。DX(デジタルトランスフォーメーション)を支える電気、その安定供給に欠かせない電源としての原発、と連想が浮かぶ。ここでは、そうではないはずである。しかし、〈電源〉という連想は、この詩集、そして冒頭のタイトル詩に通奏低音のように響いている、と私は思う。
 田原だろうか。田んぼである平らな土地。そうであるかもしれない。〈でんげん〉の〈でん〉が、田んぼの田であることは間違いない。しかし、田原(でんげん)という言葉はない。田は、農用地で人の手の加えられた土地であるが、一般に原は、原野であり、人の手の入らない草地のことである。
 〈でんげん〉と聞いて、その瞬間、ひとは〈でんえん〉の聞き間違いか、と思うだろう。これは、正しい反応である、と思う。佐々木洋一は、栗原市栗駒岩ヶ崎の田園、人々が手をかけ維持してきた田園をこそ書いてきた詩人である。しかし、〈え〉ではなく、〈げ〉である。

「畦道に鎮まると
 でんげんがいる
 ひき蛙やどじょうの傍らで
 まだ大丈夫だといっている

 何が大丈夫なのか
 問い詰めても
 でんげんはただ大丈夫という」

 冒頭の二連である。
 ひき蛙や、特にどじょうは、過剰に農薬を投下した田んぼには生息できない。適切でない人間のテクノロジーのもとでは絶滅してしまう生物たちである。(現代風の先端工業、情報産業のみならず、農業もテクノロジーの塊であることはいうまでもない。)
 しかし、〈でんげん〉はまだ大丈夫だという。だが、しかし、その根拠は語らない。謎である。

「畦道から畦道に入ると
 またでんげんがいて
 大丈夫という

 畦道に止まると
 でーんと構えているのはとのさま蛙
 どーんと寝転んでいるのはどじょう
 でんげんはただ大丈夫と座っている

 何が大丈夫なのか
 そうそうふうふうは 未だに
 でんげんを信頼しきっているようだ」(五~最終連)

 ここで、〈そうそうふうふう〉とは何か、第三連に書いてあるが、蛙やどじょうの眷属であって、土地の生き物や自然の現象のことである。(草であり、風である。道草を食う子どもたちでもあるだろう。)それらは皆、〈でんげん〉なるものを信頼しきっているのだという。

「畦道のみち草やのら風に
 そうそうふうふうという名を付けたのは
 でんげんだといわれているが
 定かではない」(三連)

 実は、詩の末尾の注に、

「でんげん=田源、田間」

と、謎解きしてある。
 田んぼのその源にあるもの、田んぼの間に潜んでいるもの。人間と自然の共存した長い営みのことであり、土地の神のことだと言ってもいい。佐々木洋一の信じている神である。あるいは、信じているかのような神。
 しかし、詩には、以下のように書いている箇所がある。

「でんげんを漢字で描いてはいけない
 ひらがなで轢くべきものだ」(四連)

 彼は、でんげんを漢字で書いてしまった。詩の外の注において、ではあるが。
 ここは、そのまま、謎解きせずに、意味不明の言葉として放り出しておくべきではなかったか?分かる人間にだけ分かる言葉として放置しておくべきではなかったか?
 これは、佐々木洋一のやさしさの徴だろうか。

 二編目の「新雪の土手の道」においては、「親近感を覚えながら」、「並行して歩いている獣」が、いつか「新雪の深さのなかに消え」て、私ひとりが歩いているはずなのに、「振り向くと 二つの獣の足跡が続いている」と書く。
 詩人は、土地の自然のなかを歩んでいる。人間であると同時に、土地の獣と一緒に歩く一個の獣にほかならない。生き物である。土地の自然と一体化した暮らしを営む人間である。

 詩集を一読して、聞き慣れない造語や擬態語にひっかかる。それが、私に何かを語らせようとする。
 しかし、ひっかりながら、繰り返し詩集を読むと、どの詩も美しい。硬質な、みずみずしい、そしてやさしい美しさが立ち現れてくる。
 たとえば、「生きる子」。

「新緑の森の奥に走って行き
 深緑の森の奥から駆け出してきた子は
 髪をなびかせながら
 髪のありかをさらけ出している
 水たまりに顔が映ると
 はにかみのような表情を浮かべる
 新しい子にはなれないが
 ふかい子にはなれる
 澄み切った愛も 愛に飢えることも知り
 深緑の森の奥から駆け出してきた子が
 海辺に向かい走り出す
 後を深緑の匂いがまとわりついていく
 深緑の森の奥から駆け出してきた子は
 新しい子にはなれないが
 いきる子にはなれる
 なつかしい海の匂いを絡ませ
 生きる子になれる」(全編)

 ここには、造語はない。聞き慣れない擬態語もない。
 末尾から3行目の「いきる子」をひらがなにしているのは、同じく末尾から10行目の「ふかい子」と平仄をあわせ、恐らくうまれたばかりの子どものやわらかさを現わしているかのような文飾であるが、それ以外には目立ったレトリックはない。(新緑と深緑の同音異義語はあえて、言うまでもない。)
 佐々木洋一には、ことさらに現代詩めいたレトリックは必要ないのではないか。なにかとてもみずみずしい、純粋な、確固とした世界がある。
 それは恐らく「田園」である。自然と人間の営みがしっかりと結びついている世界である。
 もちろん、現代社会において、「田園」は危うい。それはいうまでもない。佐々木洋一がそれに気づいていないわけではない。しかし、佐々木洋一の世界においては、確固として揺るぎない理念であり、現実である。
 彼は「新しい子」にはなれない。今の世に適応しすぎた人間にはなれない。しかし、深い子、生きる子にはなれるのである。

 さて、佐々木洋一にとっての「田園」は、私にとっての「湾」である。
 佐々木洋一からレトリックを取り払っても、確固とした実質がそこに厳然と存在している。
 しかし、私から小賢しいレトリックを取り除いてしまったら、そこには何も残らない。空虚が広がるのみ、なのではないか。そういう恐怖に、私は捕らわれている。私の「湾」は、空虚な思い込みでしかなく、確固とした現実に立ってはいない、のではないか。
 佐々木洋一には、語るべき内実がある。にもかかわらず、現実の〈田園〉の危うさに百も承知であるから、ストレートにそう言わず、「でんげん」と斜に構えたような新しい造語を使用せざるを得なかった、ということなのだろうか?
 であるとすれば、現代の詩人として、佐々木洋一のレトリックには必然性がある、というべきなのだろうか。そのレトリックによってこそ際立つ美しさが立ち現れると言うべきなのだろうか。 
 ああ、私は、そのレトリックにこそ引っ掛けられて、こういう文章を書かされたというべきなのだろうか。


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