ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

霧笛第2期第31号〈編集後記〉

2015-07-24 22:55:35 | 霧笛編集後記

頭注;昨年夏、8月の31号の編集後記。毎回載せていたつもりだったが、このところは、読書の記録に気をとられていた、ということか。今年も、間もなく梅雨明けのはず。1年前のものだ。

◆いつのまにか、夏も盛りとなった。台風が発生して、ここしばらくは遠く西のほうを北上したり、南の洋上に折れ曲がったり、暑く湿った南の空気が列島の上に滞留する。だが、ここは、まだ過ごしやすい。人口密度の低い風通しの良い部屋でキーボードをたたいたり、受話器に声を投げかけたり。来客の話を聴いたり。南東向きのガラス張りだが濃い桜の緑の陰になって、開け放した窓から空気が入り、エアコンなしでも当面はやり過ごせる。

 と昼間のことを思い出しながら、自宅のパソコンに向かっているが、今夜は、暑い。今年一番の暑さだ。だが、まだ、本番はこれから。

◆小熊昭広さんが、午前中に、大船渡に向う途上だと電話をくれた。お昼に、急いで弁当をたいらげ、Kポートにご案内した。私はアイスコーヒー、小熊さんは、メニューの磯屋水産の賄い丼。マグロとタコも入った中落ち丼にダシ汁がつく。半ば食してダシをかけて続きをかっ込む、という風情である。私は、一時に仕事でひとと会う、その場所に、送っていただいて、そこで別れた。

◆小熊さんが、彼のHP情報短信に、三十号のこと書いてくれた。

「3つの作品が私の心に引っかかってきました。それは、及川良子さんの「ある日、畑で」と西条健一氏の「春」、そして千田基嗣氏の「水」です。…どの詩も、普段の生活の回りにある、ごくありふれた自然、風景に目を向けて、語っているような気がしたからです。」

良子さんの詩は「ささやかな人と人の触れ合いや自然の出来事を、とても透明な心が洗われる言葉で詩に掬い取」り、「何気に日常の出来事が、…純粋なこころのやりとりに昇華し、あたかも祈りのような言葉となって」いるという。

「西条氏の言葉は、なにげない日常の風景、出来事から生きていることの喜びのような感動、生命の大切さを感じ取り、感謝しています。まさに祈りのような言葉です。」

千田の詩は「物質そのもののことを詠った作品なのですが、どこにでもある水は冒頭の詩行から「聖なる水」であり、「透明な天空の水」であり、「汚れを洗い流す水」であるという高い精神性を持たなければ書けない言葉で言い表されています。」これもまた祈りであると小熊氏は言う。

霧笛が、気仙沼のひとびとの、ひとつの祈りのかたちである、そういう位置を占めえているとするなら幸せなことだ。

◆照井由紀子さんが、住所変更。現在の仮設の場所。震災以降、陸前高田ジョニーの最初の仮設店舗は何度か訪れたが、移転した現在の店は、実はまだお邪魔していない。いま、大町のもとの店舗のあたりはどうなっているのだろう。いつも少し暗い照明の懐かしい店。

◆常山の表紙は、走る少女ふたり。モノクロの動かない絵であるが、動いている。スタートラインから走り出して、ゴールへ向かう、中間点で全速力に到達したまさにその瞬間を、鮮やかに切り取ったというふうな。軽やかな力に満ちた生きた肉体が正確に写し取られている。


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