日本評論社刊
斎藤環の「オープンダイアローグとは何か」(医学書院)を読んで、もはや一年を経過している。興奮さめやらぬ思いで読み終えた本である。
日本において、「オープンダイアローグ」が、一個のムーブメントたりうるのであれば、どうにかその一翼に加担したい思いはある。しかし、私は在野の市民に過ぎない。
医師でも臨床心理士でもない。精神保健福祉士でもない。
産業カウンセラーなどという一応の資格は持っているし、市役所の社会福祉事務所でケースワーカーを6年経験したとか、医師会の看護学校で社会福祉の講義を持ったとかの経験はあり、ものの本はそれなりに読んでいたりはする。
ということどももあるが、このごろのことで言えば、哲学カフェである。
実は、この本を読みながら、哲学カフェというものとの符合の仕方にいちいち感嘆しつづけであったと言って過言でない。
さて、オープンダイアローグは、1980年代のフィンランドのとある地方で生まれたという。
「1980年代初め、フィンランドのトルニオにあるケロプダス精神科病院という小さな病院でオープンダイアローグは生まれた。当事者たちに開かれたシステムになるための最も重要なステップは、1984年に起こった。」(23ページ)
オープンだというのは、患者やその家族に対してもオープンだということである。
「そこでは家族と専門家の協働が中心的役割を果たした。治療計画を立てるためのスタッフだけのミーティングを行った後に家族療法のセッションを計画どおり行うという手順はやめにして、計画も治療も最初からオープン・ミーティングによって行うようにした。患者がそのミーティングの初めから参加すると決められた。この実践では、スタッフは患者のための決定を前もってミーティングで決めたりはしないのである。家族もまた、家族療法のための特別な指示を前もって受けたりせずに、自分たちのケースの合同ミーティングに参加した。」(23ページ)
オープンにというのは、最初からのということではなく、試行錯誤のあとで辿り着いた形である。
「治療計画ミ-ティングはその後、最初から患者がミーティングに参加するように実質的につくりなおされた。このことは、計画と治療を2つのプロセスに分けるというそれ以前のやり方をひっくりかえした。そもそもの最初のオープン・ミーティングで、チームメンバーが治療についての考えや患者について聞いたことをオープンに話すと、その後の振る舞いが違ったものになることが観察された。治療計画とその実行を別々に切り離して考えるのではなく、どちらも同じプロセスであると見なすことは、ラジカルな一歩を踏み出したということである。多くの場合、計画を立てる過程こそが治療のベストな形であるということが明らかになった。」(24ページ)
もう少し先まで読み進めていくと、ミハイル・バフチンという名前が出てくる。バフチンというのは、20世紀初めのロシアの哲学者、文学者(あ、実作者ではなくて、文学についての学者。文芸学者と言えばいいのか。)で、ドストエフスキーの評論で知られる。ドストエフスキーの小説はポリフォニー(多声)であると。
ポリフォニーの反対は、モノフォニー(単声)。多声音楽、単声音楽と言って、単声とは、ひとつの旋律で成立する音楽。アカペラで、楽器なしで、ひとりで歌えば、必然的に単声音楽となる。(なにか、モンゴルあたりで、ひとりで多声が出せるという音楽があるようだが、こういうのは、ごくまれな例外である。)複数で歌っても、ユニゾンは、単声。ユニは一、ソンは音、声だから、まさしくその通りだ。
二つ以上の旋律があったり、和声がついたりすれば必然的に多声となるが、典型的には、ベートーベンの交響曲などということになる。もちろん、コーラスも。
考えてみれば、いま、世のなかで聞こえてくる音楽は、ほぼすべてポリフォニーである。和音(コード)のついていない音楽は、ごく少ない。独唱も、ギター・ソロも、伴奏、バックの音がついていなければ別だが、それは例外的な状況となる。
ことば、語りのことでいうと、独白と対話、モノローグとダイアローグの対比となる。ポリフォニーとはダイアローグである。多声とは対話のことである。
バフチンの著作自体は読んだことがないが、ドストエフスキーについての評論などを読むと、必ず出てくる名前であり、文学理論や哲学理論での名前が、精神医学の実践の場に登場するというのは、私として、驚きであり、喜ばしいことである。相当に関連が深いとは見えているのではあっても、とりあえずは別の分野が、あらためて交差し、結びつくという経験。
「最初の大きな研究プロジェクトが行われた。その時から、新しい開かれたシステム内部の相互作用が注目されるようになった。ミハイル・バフチンの〈対話〉の意義が見えるようになってきたのである。文学や言語を研究した彼の考えが、精神科治療プロセスについて私たちが理解しつつあったこととぴったり重なったのだ。これは予期せぬ驚きだった。」(56ページ)
誰かが、モノローグ(独白)で、筋道だった正解を与えるというのでなく、複数の人間が関わり、対話の中で、広い見通しを獲得していくこと。
「対話の中では、たった一人の主体が思考しているのではない。対話に入ってくる人全員が思考する主体なのである。この意味で、対話とはモノローグとは全く反対のことである。…〈対話〉であることは、話し手が絶えずそこにいる相手や社会的(地理的)文脈に合わせながら、そしてやりとりの中で応答してくる言葉を組み込みながら、自分の周囲の社会という場につながっているということである。テーマを終わらせたり、最終的な解答や解決を与えるために答えるのではない。答えることで、今話し合われていることにさらに広い見通しをもたらすのである。」(107ページ)
患者、家族と治療、支援側が、共に語り合うことによって、有効な治療効果をもたらされるのだという。
最近はやりの、根拠に基づいた研究、エヴィデンス・ベイスト・リサーチへの批判がある。それは、対話的ではなく、モノローグ的だと。つまり、あまり、役に立たないのだと。
科学的に証明するためには、できるだけ単純に条件を揃えてその結果を計ることが必要になる。現実の様々な条件をすべて考慮したのでは、複雑すぎて証明は著しく困難になる。一個の論文を書くためには、条件を整理して絞り込んだものにしなければならないが、あまりに単純化した条件のもとでの実験、考察は、実践にはほとんど役に立たない空論となってしまう。
「たった一つの作用因子しか研究しないという方法は、重篤な精神病的危機を治療している状況には全くふさわしくない。そこには多くの作用因子があり、治療の結果は治療プロセスの全体から出てくるものだからである。なるほど、研究対象となる治療以外の無数の要素が治療の結果に影響を与えているのであり…無数の未知の作用因子があるのだ。…キスリングとロイヒトは、実験的セッティングの結果と治療実践のギャップはかなり大きいと述べた。彼らはありのままの追跡調査――つまり実際の治療状況――の中で研究すべきだと言っている。」(182ページ)
(蛇足だが、経済学にも、えてしてこういう空論が満ち溢れているというふうに、私などは思い込んでいる。)
「進路社会的仕事を発展させるためには、科学的実証が必要である。根拠に基づいた研究は、それ自体に問題があるのではない。…『広い意味での根拠に基づいた研究』が行われなければならない。そのためには、同じ立場の人たちと議論していてもだめである。パラダイムの境界を超えた議論が必要となる。境界を越そうとすれば、そのためのミーティングの場、出会いの舞台、立場の異なる人たちのあいだの対話がなくてはならない。」(187ページ)
エピローグに、オープンダイアローグという対話的実践の新たな特徴として9項目ほど列記してあるが、その中にこんなことが書いてある。
「6.治療や援助の計画は、治療や援助のプロセスでもある。そしてプロセスはクライエント抜きに専門家間でつくっていくのではない。
7.話に耳を傾けることがアドバイスを行うよりも重要になる。
8.考え方・態度・出会いが技法よりも重要になる。」(199ページ)
クライエントとは、患者のことである。話に耳を傾けるとは、そのとおり、傾聴である。
以上、読んでくると、オープンダイアローグは、中村雄二郎以来の受動の知、臨床の知、それを引き継いだ鷲田清一の臨床哲学、哲学カフェのムーブメントと平仄があう、というか、根本的なところでの考え方、ものごとの捉え方がぴったりと一致しているというふうに思わされる。
私自身、このところ何度か、「哲学カフェ」を行っているが、その現場での対話の進み方、対話の中で参加者が受け取る情報、というよりは感情、それらは、ここで述べられているオープンダイアローグととても似たようなものとなっていると言って間違いないように感じている。
ところで、この本の翻訳者である、高木俊介という1957年生まれの精神医学者であるが、訳者あとがきをみても、1958年生まれの齊藤環にひとことも触れていない、ということを、1956年生まれの私がふーん、と思っている。ま、とくにどうという話題でもないだろう。
斎藤環の本の紹介は、このブログで、前に書いている。
斎藤環 著+訳 オープンダイアローグとは何か 医学書院
http://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/a01dc20dcb06f6d0b9ba1f0da6c27a4f
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