ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

石垣りん詩集 表札など 新装版 童話屋

2020-12-03 17:13:32 | エッセイ
 石垣りんは、1920年(大正9年)生まれだという。最初に読んだのは、どこでだったろう?国語の教科書だろうか?「シジミ」だとか、「表札」だとかは、確かに中学校だろうか、教科書で読んだ記憶がある。
 現代詩文庫を、図書館で借りるかして読んでいる気もする。定かではないが、現代詩手帖だったり、どこかの雑誌で繰り返し目にしていることは間違いない。
 高名な詩人である。
 女流詩人、などという言い方は、昨今はしないが、私が十代から二十代にかけて相応に意図して詩に触れることをした時代に、当時もっとも年かさの女流詩人として存在していたように思う。1960~70年代、昭和で言えば40~50年代というところ。
 『表札など』は、はじめ、思潮社から1968年刊行、翌年H氏賞を受賞、同じ思潮社の現代詩文庫所収のあと、花神社から再刊、2000年に、童話屋から新装版として発行され、詩集としては異例の売り上げをみたということでもあるらしい。
 今回は、気仙沼図書館の児童室で見つけて借りてきた。いつか、「シジミ」とか「表札」とか、読み返してみたいと思っていたところだった。
 しかし、初版が1968年ということは、私が12歳、中学校に入った年である。中学校の教科書というのはあり得ないし、高校の、というのもほぼあり得ないだろう。掲載されたとすれば、まずは、まさしく「シジミ」か「表札」であって、第一詩集からの作品ではないはずだ。のちの世代の教科書に載ったことを知っているのだろうか?いずれ、最初に教科書で出会ったというのは、私の勘違いのようだ。

 まずは、冒頭の「シジミ」(8ページ)。

「夜中に目をさました。
 ゆうべ買ったシジミたちが
 台所のすみで口をあけて生きていた。

 「夜が明けたら
 ドレモコレモ
 ミンナクッテヤル」

 鬼ババの笑いを
 私は笑った。」(第1連~3連の2行目まで、)

 それから先は、詩人は、うっすら口をあけて眠ったのだという。
 「表札」(14ページ)は

「自分の住むところには
 自分で表札を出すにかぎる。

 自分の寝泊まりする場所に
 他人がかけてくれる表札は
 いつもろくなことはない。」(第1~2連)

 病室の名札、焼き場の罐(かま)は、様がついたり、殿がついたりしても碌なことがないのだと。

「精神の在り場所も
 ハタから表札をかけられてはならない
 石垣りん
 それでよい。」(第7―最終連)

 「シジミ」は、自らを鬼ババと呼ぶ冷徹なユーモアが魅力であるが、台所が舞台となり、女性らしい視点からの詩ともいえる。「表札」は、人間としての気概が立ち現れている。その後の、新川和江や茨木のり子らの女性詩―旧来の女性らしさを前面に出すというのでなく、そこを超えて、人間である気概を言挙げしようとした、ともいうべき詩たちの先駆と位置づけられる詩だろう。
 「海辺」(30ページ)という詩は、海を、人が暮らす村や町を包む布団に見立てる。

「ふるさとは
 海を布団のように着ていた。

 波打ち際から顔を出して
 女と男が寝ていた。」(第1~2連)

「小高い山に登ると
 海の裾は入り江の外にひろがり
 またその向こうにつづき
 巨大な一枚のふとんが
 人の暮らしをおし包んでいるのが見えた。」(第5連)

 村や町や都があっても

「ふとんの衿から
 顔を出しているのは
 みんな男と女のふたつだけだった。」(第7―最終連)

 この詩は、私も含め気仙沼に住まう人びとは、気仙沼湾やその中の唐桑半島の小さな奥深い湾の連なりを思い浮かべながら読み進めることになる。(たとえば今年完成した大島架橋の橋の上やその先の亀山山頂からの光景を思い出してもよい。)ふるさとの暮らしは、女と男の寝ている姿に象徴されるという。その含意はなんだろうか。私ならあれだ、これだと語ることはもちろんできる。しかし、いまこれをお読みのあなたが、こうだろう、と想像したことがあるとすれば、それもまたひとつの正解である。読んだ人の数だけ正解がある。その豊かさを想うのもまた楽しいことである。そういう読み方を許す詩だろう。
 この詩集の中に2編、戦争のことを書いた詩がある。多いか、少ないかは置いて、石垣りんが生きた時代からして、当然のことではあろう。
 ひとつは「崖」(52ページ)

「戦争の終わり、
 サイパン島の崖の上から
 次々と身を投げた女たち。

 美徳やら義理やら体裁やら
 何やら。
 火だの男だのに追いつめられて。」(第1連~第2連の3行めまで)

「それがねえ
 まだ一人も海にとどかないのだ。
 十五年もたつというのに
 どうしたんだろう。
 あの、
 女」(第3-最終連)

 戦争が終わって二十年が経っても、何もまだ終わっていないのだ、と書く、詩人の時代認識がある。
 「弔詞」(120ページ)には、「職場新聞に掲載された一〇五名の戦没者名簿に寄せて」とサブタイトルが付される。

「ここに書かれたひとつの名前から、ひとりの人が立ち上がる」(第一連)

「たとえば海老原寿美子さん、長身で陽気な若い女性。一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合って、ドブの中で死んでいた、私の仲間」(第4連)

「戦争が終わって二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、覚えている人も職場に少ない。」(第7連)

 20年後の8月15日に寄せた詩。詩人は、忘れるな、覚えていよ、と語る。
 もちろん、それから50年経った75年目の今年も、私たちは覚えていなければならない。忘れてはいけないのだろう。繰り返し、テレビドラマにも描かれ続けなければならない。
 さて、現代詩手帖に載っている詩人全部が、後世に残るわけではない。読み継がれる詩人は、せいぜいが10年に一人か二人現れる、ということなのかもしれない。石垣りんは、確かにそういう詩人のひとりであろう。



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