ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

鷲田清一 しんがりの思想 角川新書

2015-09-22 12:58:29 | エッセイ

 鷲田清一である。副題は、反リーダーシップ論。

 これが、現在の政治状況に対する一個のアンチテーゼであることは間違いない。

 「決めることのできる政治」を標榜するものへのアンチテーゼ。

 

 まず、リーダーがリーダーシップを持つべきなのは自明のことであり、それに反対するものではないとしたうえで、あえて、リーダーシップ論が数多く出版されていることに違和感を述べたうえで、鷲田は、次のように述べる。

 

 「リーダーをめぐってもうひとつ喧しいのが、みずからリーダーたらんとするのではなく逆に「強いリーダー」の登場を待望する声だ。しかし、だれかを先頭に立ててみながそのあとに一糸乱れず付き従うというような行動の絵図ほど、現実の社会的活動にそぐわぬものはない。軍隊のように一本の指揮系統でまとまっている集団は、いったん崩れだすと止めようがないほどに脆いものである。独裁者による強権国家でその独裁者が追放されたあとどれほどの混乱が起こるかは、ここ十年ほどのうちでもわたしたちは何度も目にしたはずだ。「リーダーに何もかもおまかせ」というリーダー待望論は、じつのところ、決定と責任とを人にあずける、市民のきわめて受動的な姿勢を表すだけである。」(7ページ)

 

 この本は、ひとりひとりの生き方についての一種の指南書の体裁もとりながら、実は一個の市民社会論でもある。

 

 「メディアが報じる〈編集された〉情報や政治談議をそのまま反復し、もっとちゃんとやってもらわねば困ると憤るひとびと。そこにしかし、政治の別なあり方を提案し、それをみずからも部分的に担っていくという発想は乏しい。ひとびとにその時求められていたのは、そうした政治というサービスの消費者、つまりは「顧客」としてのふるまいではなく、社会を担う、受け身ではない「市民」としてのふるまいではなかったのか。…(中略)…そう、問われていたのは、そしていまも問われているのは、「公民」としてのわたしたち「市民」の力量なのである。(53ページ)

 

 もちろん、市民社会というものが、ひとりひとりの生き方、生きざまに支えられていることはいうまでもない。民俗学者の宮本常一が、「庶民の発見」(1961年)で、ひとりの石垣積み工の言葉を紹介したことにふれて、鷲田は次のように述べる。

 

 「石工は、田舎を歩いていて見事な石の積み方に心打たれ、将来、おなじ職工の眼にふれたときに恥ずかしくないような仕事をしておきたいとおもった。このとき、石工のこだわりはじつに未来の職人に宛てられていた。これに対して、目先の評判や利害ではなく、何十年か先の世代に見られてもけっして恥ずかしくない仕事を、というそのような矜持をもって仕事に向かうひとがうんと減ったのが現代である。未来世代のことをまずは案じる、そういう心持ちをほとんど失っているのが現代である。」(9ページ)

 

 また別のところで、次のように書く。

 

 「日本人は普通のひとがえらい」。日本社会について海外のひとからそのように言われることがある。/「普通のひと」とは「市井のひとびと」と言いかえてもよい。ところがその「市井」というものそのものが大きくひび割れてきたのが、近年の日本社会である。そしていま、「無縁社会」や「孤独死」が問題とされ、「地域社会」や「コミュニティ」の崩壊とその再生が口に泡をためて叫ばれる一方で、わたしたちはかつての職住一致を基盤とした、顔見知りだけで構成される「町内」のような地域社会の再生はもはや不可能であるとも感じている。このようなジレンマの中で、わたしたちはいまいちど、そもそも現代における「地域」や「コミュニティ」とはどういうものなのか、「住民」と「市民」はどう違うのか、「自立」と「相互支援」はどのような関係にあるのか、「共同」と「協働」の違いはどこにあるのか、などといった基本的な問題を押さえておく必要があるだろう。」(57ページ)

 

 一個の別々の人格である個人、それと、広い市民の社会、あるいは国家。個人と社会と並べてしまうと、個人は、浮ぐさのようにつかみどころがなく、縁もゆかりもない空虚で巨大な穴の中に放り込まれたような気持ちになる。集落だとか、町内会、自治会、そういう地域のコミュニティに所属し、そのうえで、町や村、都市に所属するそういう段階を踏まえて、ひととのつながりのなかに暮らすことによって、ひとは普通に生きていけることとなる。しかし、町内会、自治会、そういうものは、失われ崩壊しつつある、というのが日本の大部分の地域の現状なのではないだろうか。

 

 「このような「当事者性」を回復するためには、失われつつある「中間集団」を、これまでとは異なる原理で、これまでとは異なるネットワークによって修復してゆかねばならない……。…(中略)…社会から迫られる「自己責任」や「自立」も、けっして「独立」(つまり非依存in-dependence)を意味するのではなく、むしろ「支えあい」(つまり相互依存inter-dependence)のネットワークをいつでも駆動させことのできる用意が各々にできていることという意味で理解しなければならないと感じだしている。」(127ページ)

 

 ここでいう「相互依存」(インター‐ディペンダンス)は決して、悪い意味で使っているのではない。地域で支えあう関係を、昔風の息苦しい共同体、われわれがそこから逃げ出そうとした濃密な人間関係というのとは、ちょっと違う、意味を少しずらしたような関係に読み替え、組み変えて行こうとするものである。

 そこで、網野善彦の無縁の考え方を参照する。網野は「無縁・苦界・楽」などの著書で知られる歴史学者である。無縁は、古代的な有縁の村から飛び出して辿り着く、近代的、都市的、市場主義、資本主義的な場所を支配する原理である。明治以降のわれわれ、あるいは、田舎に育ったわれわれが、求め続けてきた世界。個人が個人としてばらばらに分断された場所。

 

 「「無縁」はかならずしも常に個人の遺棄や孤立をのみ意味するわけではない。網野善彦は、人類はひとびとを管理し、領有する国家的な原理とは別に、それとは異なる社会的原理を育んできたという。それが「無縁」の原理、より正確に言えば、「自覚化された無縁」の原理だという。そして、芸能や宗教などひとの魂を深く揺るがすような文化は、無縁の場―だれにも所有されていない場所であり、アジール(避難所)ともいえる場所である―に生まれ、無縁のひとたちによって担われてきたという、それはいってみれば、この世のしがらみとしての縁が解除される場所であり、都市とは、あるいは宗教施設や芸能集団とは、元来そういう場所としてひとびとが求めてきたものである。/西洋近代の「自由」や「平等」の思想も、王権や領主との厳しい闘争の中であえておのれを無縁化するというかたちで獲得されたものだといえる。都市における自由とは、だれもが匿名でいられる自由のことである。しかしというか、だからというか、その自由は深い「孤独」に耐えうるような強さをわたしたちに求める。自由とはある種、過酷なものでもあるのだ。」(177ページ)

 

 われわれは歴史の経過を後戻りするわけにはいかない。この歴史の進展のその先に進んでいくほかない。

 

 「わたしにはまだよくわからないが、血縁・地縁・社縁を外れたところで、それがたんなるワン・オブ・ゼムとして参加するボランティアの活動、あるいは匿名のままで交通しあうネット社会、そこに現代における「無縁の縁」へのやみがたい欲望を見いだすことができるのかもしれない。とはいえ、他方で、地域の共同性というものを育てるには時間がかかる。おなじ食材を口にし、おなじ厳しい気候や災害と闘い、行事や習慣を共有する、そういう小さなふるまいの積み重ねのなかに地域社会の存立はかかっている。いずれにせよ、わたしたちは従来のしがらみとしての縁を超えたところで「無縁の縁」を紡ぎだすその行程について、考えてみる必要がある。それがふたたびしがらみに転落することは、なかなかに止めえないにしても。」(178ページ)

 

 ここで急いで付け加えておけば、進展とは、進歩ではない。成長ではない。むしろ、これから先、成長はないというべきである。(個人の人生における成長や、会社を含む個別の組織の成長はある。逆にかならず、個別の衰退や死や解散はあり、全体としては、均衡したり、何にしろ変化はしていくが。)われわれが、無縁の、自由な都市を知ってしまった限りは、そこに無知なままで、田舎の共同体にとどまっていることはできないということだ。自由な都市をも知った上で、あえて、田舎にとどまること。あるいは、むしろ共同体の価値観を選び直すことが必要となる。

 なんというか、私の見立てが正しいのか、どれほどの有効性を持つのかは、定かではないが、政治学者・松下圭一の市民社会論と、里山の哲学者・内山節の共同体論の間で引き裂かれている思いというようなものも、私は抱え込んでいると思い込んでおり、そこにこの鷲田清一の論考を置くことで、架橋しうる、みたいなこともある、のではないか、と考えたりする。

 (内山節は、美しい世界に住まっている。鷲田清一は、われわれとともに、現世で呻吟している。みたいなイメージ、と言ってはおかしなことになるか。菩薩と求道者、とか。)

 最近わたしは、「国民国家主義者」というものであってもよいな、と内田樹とか平川克美などもっと他の著者も含めて本を読みながら考えているところであるが、鷲田も、末尾近くこんなことを書いている。

 

 「にもかかわらず、現時点で、わたしたちにとって、国民国家がひととしての基本的権利を擁護する最良の装置であることもまた事実である。「人権」が「立憲国家」への帰属というなかでしか最終的に保障されないかぎりは。ただ、ひとびとの公共的存在としての社会性は、国家とは別次元のものであるということ、市民としてのネットワークのなかで自主的に紡ぎだされてゆくほかないものであるということは、よくよく心にとめおく必要がある。」(196ページ)

 

 日本の哲学者として、中村雄二郎以降、読むべきは、鷲田清一である、との思いをまた強くした一冊であった。

 


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