ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

村上春樹 一人称単数 文藝春秋

2020-09-01 23:20:40 | エッセイ
 6年ぶりの短編集とのこと。長編は、『騎士団長殺し』が2017年であるが、短編集は『女のいない男たち』が2014年か。
 長編と短編交互に、このくらいの間隔で出してもらえるというのが、読む側としてちょうどいいかもしれない。
 ここで、ちょっと変なことを書いておくが、引き続き村上龍の長編小説「MISSING 失われているもの」を読んでいる。どうも、これら二つの世界をどこか混同している。春樹の世界と、龍の世界と、なにか、とても似たものがあるように感じてしまう。ただし、これは、ここではこう言っただけにしてこのまま放置しておく。最後に何か言えることがあるかもしれない。
 さて、村上春樹の短編集、冒頭の「石の枕に」は、こう書き出される。

「ここで語ろうとしているのは、一人の女性のことだ。とはいえ、彼女についての知識を、僕はまったくと言っていいくらい持ち合わせていない。名前だって顔だって思い出せない。また向こうだっておそらく、僕の名前も顔も覚えてはいないはずだ。」(7ページ)

 この女性とは、例によって一夜をともにしたわけだが、手作りめいた自費出版の歌集を作成したと言い、あとから「僕」に送ってよこす。
 たとえば、こんな歌が掲載されている。

「あなたと/わたしって遠いの/でしたっけ?
 木星乗り継ぎ/でよかったかしら?

 石のまくら/に耳をあてて/聞こえるは
 流される血の/音のなさ、なさ」(8ページ)

 これは、すぐれた短歌であると思う。専門の歌人がこれをどう評するのかは聞いてみたい気がするが、私が読む限りは面白い。無駄な言葉がない。取り上げる世界の切り口がいい。分かりやすさと分かりにくさの接合の具合が悪くない、と思う。
 これは、小説家本人の作なのだろうか?
 だれか新鋭作家の作品を引用したのだろうか?
 他の作家の作品なら、その旨注記があるはずである。そういうものは、この短編のなかにも、巻末にも一切ない。
 念のため、ちょっとネットで検索してみたが、どうやら本人の創作ということで間違いないようである。しかし、やはり、村上春樹である。この短編について、ネット上にはすでに多くの紹介、感想、評論が公開されている。読んでしまうと影響される。影響されたって構わないわけで、読めるだけ読んでしまうべきでもあるのだろうが、そういう作業は、もう少し時が経たあとの学者にお任せすべきところでもあるだろう。今の私の任ではない。
 村上春樹は、短歌について、「僕」の思いとして、次のように書いている。

「でもそこに収められた短歌のいくつかは不思議なほど深く僕の心に残った。彼女のつくる短歌のほとんどは、男女の愛と、そして人の死に関するものだった。まるで愛と死が、互いとの分離・分断を断固として拒むものたちであることを示すかのように。」(8ページ)

 なるほど。
 小説家の真似をして、私も、こんなことを書いてみたくなる。
〈村上春樹の書く小説のほとんどは、この短編集に収められているものも含め、男女の愛と、そして人の死に関するものである〉。
 そうそう、ネット上の紹介でだれか、「石のまくら」というのは死人のためのまくらだと書いていた。きっとそうなのだろう。

 2編目は、「クリーム」。

「十八歳のときに経験した奇妙な出来事について、ぼくはある年下の友人に語っている。」(27ページ)

 この作品だけでなく、短編集に収められた小説のすべては、同じように奇妙な出来事の体験を描いたものである。(もっとも、奇妙な出来事のことを書いていない短編小説というのは、世の中にあまり存在していないかもしれない。特に、村上春樹については、ほぼ例外なしにそうだろう。)
 一つ年下の女の子からピアノ発表会の招待状が届いた。神戸の坂道をバスで登り、バスを降りてからさらに徒歩で登った先の会場は閉まっていた。あきらめて、そこから、とぼとぼと下った途中の公園で、奇妙な老人に会う。

「「中心がいくつもある円や」……「中心がいくつもあってやな、いや、ときとして無数にあってやな、しかも外周を持たない円のことや」と老人は額のしわを深めていった。「そういう円を、きみは思い浮かべられるか?」
 頭はまだうまく働かなかったが、礼儀としていちおう考えを巡らせてみた。中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円。でもそんなものを思い描くことはできなかった。」(40ページ)

 この奇妙なことを語る老人は、現在の村上春樹よりも(ひょっとしたら64歳の私よりも)若い可能性がある。同い年の可能性もある。
 ひょっとしたら、この老人は、村上春樹自身であり、50年後の「ぼく」なのかもしれない。
 (おや、一人称が、1編目は「僕」だったのに、こちらでは「ぼく」だ。どうしてだろう?)
 しかし、中心がいくつもあって、外周を持たない円などというものは、実際のところ存在しない。円の定義に合致しない架空の存在である。「中心が二つあって、外周のある」というのは楕円であるし、同様に考えていけば中心が3つ以上あって外周のある図形というのは存在しうるし、そういうのは楕々円とでも呼べばいいのかもしれないが、普通の意味での「円」、「真円」ではない。そもそも外周がないのではいかなる意味での図形ですらない。
 この小説のこの場面は、まあ、禅問答である。
 ところで、中心が二つある楕円というのは、平川克己氏が『21世紀の楕円幻想論』で書いている通り、なかなか含蓄が深いものである。その体で行けば、中心が無数にあり、外周すらない円というのも相当に素晴らしいものかもしれず、想像し、考察を巡らせてみるのも案外有益かもしれない。
 禅問答だ、と言ってしまうと、そんなものかと思い込んで、もはや謎解きの興味もない、正解を見てしまった、つまらない、などと早とちりする向きもあるかもしれないが、そんなのは誤解である。禅問答として楽しめばよい。
そうだ、すべての短編小説は、禅問答である、というテーゼを主張しようか。
もっとも、禅問答の問いかけにも、いかにもつまらない、出来の悪い問いもあるだろうし、逆に傑作もありうる。
 ここで作家の問いかけた禅問答が楽しめるかどうかは作家の力量ということになるし、一方で、読者の力量ということにもなる。
 ちなみに私は、充分に楽しませてもらいました。

3篇目は「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」。
 冒頭は、太字のゴシック体で、このタイトルの、と思われる文章の引用である。その後に続けて、

「これは僕が大学生の頃に書いた文章の冒頭だ。生まれて初めて活字になり、僅かなりとも稿料というものをもらった文章だ。
 もちろん、「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」などというレコードは実在しない。…(中略)…、しかしもしバードが1960年代まで生き延びて、ボサノヴァ音楽に興味を持ち、もしそれを演奏していたら……という想定のもとに僕はこの架空のレコード批評を書いた。」(52ページ)

 バードというのは、ビバップ、モダン・ジャズの祖、高名なサックス・プレイヤー、チャーリー・パーカーのあだ名である(大江健三郎の小説『個人的な体験』の主人公のことではない――と、こんなのは、2020年の現在、意味のない注記である)。そのバードが、ブラジルで、ジャズとサンバの融合として生まれたボサノヴァの生みの親、ピアニストのアントニオ・カルロス・ジョビンらと共演してレコードを出していた、と「僕」はでっち上げたわけである。(お、ここはまた「僕」だ。)
 (という文章を、私は、坂本龍一とモレレンバウム夫妻の、ボサノヴァのCDを聴きながら書いている。坂本龍一が、かつてジョビンとともに演奏した夫妻とともに創った、ジョビンに捧げるアルバム。)

「しかしそれからおよそ十五年後に、その文章は意外なかたちでぼくのところに戻ってくることになる。まるで投げたことを忘れていたブーメランが、予想もしないときに手元に舞い戻るみたいに。
 仕事でニューヨーク市内に滞在しているときに…小さな中古レコード店に入った。そしてそこで僕はなんと、チャーリー・パーカーのコーナーに「Charlie Parker Plays Bossa Nova」というタイトルのレコードを見つけることになる。ブートレグの私家版のようなレコードだ。白いジャケットの表側には絵も写真もなく、タイトルが、黒い活字で愛想なく印刷されているだけだ。裏側には曲目とパーソネルが記されている。驚いたことに曲目も演奏者の名前も、僕が学生時代に適当にでっち上げたものと寸分違わず同じだった。ハンク・ジョーンズが二曲だけ、カルロス・ジョビンに代わってピアノの前に座っている。」(60ページ)

 「僕」はその時、すぐにはそのレコードを買わないで外に出てしまう。そんなのは偽物に違いないからなのだが、後で思い直して再び、その店を訪れる。しかし、当然、そのときにはそのレコードは跡形もなく消え去っている。店主に聞いてもそんなものは知らない、あるはずがないという。
 (ところで、村上春樹がこんな小説を書いてしまった現在ならば、きっと世のもの好きのだれかが、まさしくこのタイトルのレコードを作ってしまっているに違いない。ひょっとすると、見かけだけではなく、気の利いたジャズ・ミュージシャンを使って録音まで行って制作してしまうかもしれない。)
 そのときはそれでおしまいとなるのだが、その後、「僕」は、バードが、「僕」だけのために、その偽のアルバムに収録されている一曲を、アルトサックスのソロで演奏してくれる夢を見る。

「そのとき唐突に、僕の鼻はとびっきり香ばしいコーヒーの匂いを嗅いだ。なんという魅力的な匂いだろう。熱くて濃厚な、できたてのブラック・コーヒーの匂いだ。僕の鼻腔は喜びに震えた。」(64ページ)

 (言うまでもなく、私は、今朝、起き出して、朝食の前に、コーヒー豆を挽いて、ぺーパードリップで淹れたコーヒーを手元に置きながら、この文章を書いている。村上春樹の文章を引きながら、私の目と指は、喜びに震える。ところで、余談だが、コーヒーはあまり熱すぎないほうがいい。私の好みとしては。)

 で、この短編に描かれた事象であるが、そんなのはフィクションに決まっている。嘘に違いない。しかし、作家はこう書く。

「信じたほうがいい。それはなにしろ実際に起きたことなのだから。」(69ページ)

 もちろん、小説の読み手は、作家のこんな甘言を信じることはない。

 4篇目は「ウィズ・ザ・ビートルズ  With the Beatles」

「歳をとって奇妙に感じられるのは、自分が歳をとったということではない。…驚かされるのは……とりわけ、僕の周りにいた美しく溌溂とした女の子たちが、今ではおそらく孫の二、三人もいるであろう年齢になっているという事実だ。そのことを考えると、ずいぶん不思議な気がするし、ときとして悲しい気持ちにもなる。」(73ページ)

 なるほど。
 しかし、私は、特に悲しい気持ちにはならない。不思議な気持ちはするが、悲しくはない。60歳を過ぎても、素敵な女性は素敵だ。なにか、もっと洗練されて、もっと美しくなっている、とも言いたい。
 ところで、こんなところで「悲しい」などと書くと、ポリティカル・コレクトネス的に大丈夫なのか、と余計な心配をしてしまう。もちろん、こんなところでツッコまれたら、作家なんてやってられない、はずである。余計な心配でしかないはずである。
 私だって、すべてのオーヴァー60が素敵だと書いたわけではない。64歳になっても、素敵なひとはいるし、そうでもないひともいる。これは、悲しい事実だと言えばそのとりである。(ああ、そうだ、私も64歳になったのだ。)
 さて、ビートルズのこと。

「しかし正直に言って、僕が熱心にビートルズのファンであったことは一度もない。積極的に彼らの曲を聴こうとしたこともない。彼らの曲はいやというほど聴いてきたが、それはあくまでも受動的に耳に入り、意識をすらすら通過していく流行りの音楽であり、パナソニックのトランジスタ・ラジオの小さなスピーカーから流れてくる、青春時代の背景音楽でしかなかった。音楽的壁紙と言ってもいいかもしれない。
 高校時代にも大学生になってからも、ビートルズのレコードを購入したことは一度もない。
 …
僕がふとしたきっかけでビートルズのレコードを自ら買い求め、それなりに真剣に耳を澄ませるようになったのは、ずっとあとになってからのことだ。でもそれはまた別の話になる。」(79ページ)

 正直に言って、小説家がここでビートルズについて言っていることは、全くそのまま私に当てはまる。驚くべきことでもあるが、私も村上春樹にちょっと遅れた同時代人であるということでもある。われわれの年代で、われわれのようなひとは相当に多いはずである。 デビュー当時から、この人は同時代の作家だ、と思ってきた。われわれの作家だと。村上龍もそうだが。
 ちなみに、私は、自分でレコード買うなら、後に続くツェッペリンか、テン・イヤーズ・アフターであって、ストーンズは買ったかもしれないが、ビートルズは、第一優先にはならなかった。なけなしの小遣いをはたいて買うことはできなかった。
 「僕」の記憶の中にある、当時の、ビートルズを背景に物語に登場する二人の女性については、ここでは書かない。

 5編目は「ヤクルト・スワローズ詩集」
 小説家がある時期に書いて、自費出版のように出した詩集から何篇か引いて、それをもとに書いた小説。詩人の書く詩とはちょっと違うものなのかもしれないが、シンプルな悪くない詩だと思う。私は、いわゆる詩人の書く詩というのがどういうものなのかは、実はよく分からないのだが。妙に技巧的なところはないし、あまりリズムを感じないかもしれない

 6編目は「謝肉祭(Carnaval)」

「彼女は僕が知り合った中でもっとも醜い女性だった。――というのはおそらく公正な表現ではないだろう。彼女より醜い容貌を持つ女性は、実際にはたくさんいたはずだから。……もちろん「醜い」のかわりに「美しくない」という婉曲表現を用いることはできるし、そちらのほうが読者に――とくに女性読者には――より抵抗なく受け入れてもらえるはずだ。しかし僕としてはそれでも、あえて「醜い」という直接的な(いささか乱暴な)言葉をここで使わせていただくことにする。その方が彼女という人間の本質により近く迫ることになるだろうから」(153ページ)

 こういうのは、いま、ポリティカル・コレクトネス的に言ってどうなんだろう?上の年齢による変化の話題よりも、さらに。
 いや、糾弾するために、こんなことを言っているのではない。
 極端にいえば、ある女性が美しいと書くことさえ、できなくなるのではないか、と心配になる。
 ある女性に心惹かれ、抱きしめたいと思う、という表現すら、忌避されるのか。
 女性が美しいと書くのは、女性への欲望の表現である。欲望の対象として見るということである。
 ある女性を美しいと書くことは、他の女性を間接的に美しくないと言っていることになる。差別である。
 そうなってしまったら、独身男女間の恋愛すら、文学にどういうふうに導入され、開始されることになるのか。
 創作の問題だけではない。現実に、その前段で立ち止まり、先に進めない若年者たちが増えているのではないか?恋愛感情すら忌避されるのではないか?積極的には忌避されないまでも、面倒くさいから恋愛感情には立ち入らない、などという、妙な具合にドライな若者が増えてしまっているのではないか?恋愛をしない自由というのも、もちろん、あるわけである。
 しかし、そうなったら、人間は何に欲望して生きていけばいいのだろう。究極には、生きなくてもいい、などと言ってしまいかねない。絶望も、苦しみも、悲しみもない自死。自然な成り行きとしての自死。人類が、そんなものに取りつかれたら、いったい、どうすればいいのだろう?
 こんなのは杞憂に過ぎないのだろうけれども。
 おっと、話がずいぶんと脱線してしまった。
 タイトルの謝肉祭とは、シューマンのピアノ曲である。

「月並みな意見かもしれないが、僕らの暮らしている世界のありようは往々にして、見方ひとつでがらりと転換してしまう。光線の受け方ひとつで陰が陽になり、陽が陰になる。正が負となり、負が正となる。そういう作用が世界の成り立ちのひとつの本質なのか、あるいはただの視覚的錯覚なのか、その判断は僕の手には余る。しかしいずれにせよ、そういう意味合いにおいては、F*はまさに光線のトリックスターだったと言えよう。」(156ページ)(F*とは、主題の女性。)

 〈光線のトリックスター〉とは、ある種の仮面をかぶった存在に他ならない。

「彼女はしばらく沈黙に浸っていた。それから話を続けた。
「私たちは誰しも、多かれ少なかれ仮面をかぶって生きている。まったく仮面をかぶらずにこの熾烈な世界を生きていくことはとてもできないから。悪霊の仮面の下には天使の素顔があり、天使の仮面の下には悪霊の素顔がある。どちらか一方だけということはあり得ない。それが私たちなのよ。それがカルナヴァル。そしてシューマンは、人びとのそのような複数の顔を同時に目にすることができた――仮面と素顔の両方を。なぜなら彼自身が魂を深く分裂させた人間だったから。仮面と素顔との息詰まる狭間に生きた人だったから」」(171ページ)

 ここには、何かこう、生きていこうとする欲望がひそんでいるようにも思える。エロティシズムがある。
 シューマンの謝肉祭―Carnavalは、ぜひ聴いてみようと思う。作家がお勧めの「アルトゥール・ルビンシュテインの演奏(RCA盤)」か「アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリの演奏(エンジェル盤)」から、ということになるだろう。

 そして「品川猿の告白」

「僕がその年老いた猿に出会ったのは、群馬県M*温泉の小さな旅館であった。」(187ページ)

 言葉を話し、ビールを飲む猿の話である。これもまた奇妙な出来事。

 最後は、書き下ろしのタイトルチューン(というと曲名のことになるか)、タイトル作「一人称単数」。

「一人で簡単な夕食を済ませたあと、ジョニ・ミッチェルの古いLPを久しぶりに聴きながら、読書用の椅子に座ってミステリー小説を読んでいた。それは私の好きなアルバムだったし、私の好きな作家の新刊だった。」(221ページ)

 ジョニ・ミッチェル。
 ジョニ・ミッチェルのことは、ここで書かなければ、あと一生書くことはないかもしれない。厳密にはロックではなかったと思うが、広い意味ではロックだった。ロックで、フォークで、カントリーで、ジャズで、ひっくるめて言えば、ポップ、と言っていいのだが、ポップとは言ってしまいたくない何ものかがあった。「青春の光と影」か。当時は、ポップというと微妙に向こう側に追いやってしまう感じがあった。今になってみれば、ポップ・ミュージックと言って、何の問題もないのだが。ジョニ・ミッチェルはこっち側にいる、ロックの側にいるというふうに思えた歌手だった。
 と、ここまで書いていうのもあれであるが、ここを引用したのは、ジョニ・ミッチェルのことを書きたかったというよりは、「一人で簡単な夕食を済ませたあと」という一節が、いかにも、村上春樹だな、と感じられたからだ。

「数年前に買ったポール・スミスのダーク・ブルーのスーツ(必要があって買ったのだが、まだ二度しか袖を通したことがない)をベッドの上に広げ、それに合わせてネクタイとシャツを選んだ。渋いグレーのワイドスプレッドのシャツに、ローマの空港の免税店で買ったエルメジルド・ゼニアの細かいペーズリー柄のネクタイだ。全身鏡の前に立ち、スーツを着てネクタイを結んだ自分の姿を映してみた、悪くはない。少なくとも目に見えるような落ち度はない。
 しかし、その日、私が鏡の前に立って感じたのはなぜか、一抹の後ろめたさを含んだ違和感のようなものだった。」(221ページ)

 このあたりの、ブランド名とか、アイテム名とかの列記。それが、「悪くはない。少なくとも目に見えるような落ち度はない」である。

「いつもいく近所の馴染みのバーではなく、少し足を延ばして、これまで一度も入ったことのないバーに入ってみた。……
 まだ宵の口だったから、ビルの地下にあるそのバーはすいていて、……蝶ネクタイを結んだ中年のバーテンダーに、ウォッカ・ギムレットを注文した。」(223ページ)

 まあ、こんな具合である。とか言っているうちに、相応に奇妙な出来事が始まりそうになる。
 いつのまにか店は混み始め、カウンターの二つ挟んだ席に一人の女性が座っていることに気づく。

「若い女性ではない。五十歳前後というあたりだろう。そして見たところ、自分の年齢を実際よりも若く見せようという努力をほとんど払っていないようだった。たぶん自分にそれなりの自信があるからだろう。小柄でほっそりとした体つきで、髪はぴったり程よい長さにカットされている。着こなしがなかなか洒落ていた。柔らかそうな布地の縞柄のワンピースに、ベージュのカシミアのカーディガンを羽織っていた。とりたてて美人という顔立ちではないものの、そこにはうまく完結した雰囲気のようなものが漂っていた。恐らく若いときは人目を惹く女性であったに違いない。多くの男たちに言い寄られたことだろう。彼女のさりげない身のこなしにそういう記憶の気配が感じられた。」(226ページ)

 こういう女性は、いいな、と思う。魅力的である。もっと若いころであれば、憧れる、と言ったかもしれない。女性は、やはり、その人なりにおしゃれでなくてはいけない。
 店は、もっと混んできて、女性はいつのまにか隣の席に移ってきている。

「「失礼ですが」と突然彼女が私に声をかけた。……
「そんなことをしていて、なにか楽しい?」と彼女は尋ねた。……
「そんなこと?」と私は聞き返した。
「洒落たかっこうをして、一人でバーのカウンターに座って、ギムレットを飲みながら、寡黙に読書に耽っていること」……
 「なんだっていいけど、そういうのが素敵だと思っているわけ?都会的で、スマートだとか思っているわけ?」」(227ページ)

 記憶にない女性から、言いがかりをつけられる。話を聴いていくと、「私」は、その女性の友人に随分と失礼なことをしたらしい。しかし、全く記憶がない。
 「私」が忘れてしまったということなのか、「私」の名を騙る「私」に似た誰かが、女性の友人に悪を働いたのか。
 話の中で、秘密が明かされることはない。読者は宙ぶらりんのまま放置される。

「「恥を知りなさい」とその女は言った。」(235ページ)

と、小説は終る。「私」は、何の恥を知ればいいのかひとつも分からずに放置される。短編集も終わる。
 と、そういうわけである。
 ずいぶん、長々と引用して、長々と愚にもつかないことを書き連ねてしまった。長々と、私ひとりの個人的な楽しみを続けてしまった。徒然なるままに夜も更けた。


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2 コメント

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なるほど (千田基嗣)
2020-09-02 08:57:53
なるほど、それはあり、だね。
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無数の中心、外周のない円 (千田芳嗣)
2020-09-02 06:35:19
人間一人ひとりと、その彼らが構成する社会が浮かんだ。周縁というぼんやりした範囲。

道祖神や異界との境目に明快な区切りのないあわい。
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