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ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

バルザック 鹿島茂訳 役人の生理学 講談社学術文庫

2014-03-17 01:43:27 | エッセイ

 バルザックは19世紀フランスの小説家。人間喜劇のシリーズで人気を博した。鹿島茂はフランス文学者、翻訳家。代表作は「馬車が買いたい」ということになるか。

 バルザックだと、何を読んだかな。「谷間の百合」くらいか。

 大学で、霧生一夫(清水一夫と名乗った時代もあった。)という先生がいて、「あら皮」という小説を読みかけたが、たぶん、2回ほど出席して挫折した。ランボーとボードレールを読むので手いっぱいだった。いや、辞書を引きながら意味をたどるのに精いっぱいで、読むというには至らなかったというのが正しいが。大学の4年間、フランス語のテキストを読むのに相当の時間を費やしたが、身にもつかず、ものにも成らなかった。

 さて、この本は、昨年の11月11日付で出たばかりだが、はじめは1987年に単行本として、その後、1997年に筑摩文庫で出たもののようだ。

 訳者によれば、この本は「官僚制という近代社会の根幹をなす制度について、それが誕生してまもない時期にバルザックが本質的な考察を巡らした重要な本」ということになる。「以後、本書は、マックス・ウェーバーの『官僚制』『支配の社会学』と並んで、官僚制について考えるための古典となるにちがいない。」(3ページ 学術文庫版まえがき)

 ここでいう「生理学」というのは、当時、流行の一種のシリーズもので、本来の学術としての生理学でないことは言うまでもない。

 訳者が、バルザックの別の本で書いていることを引用しているところを孫引きすると、

「しかるに、今日、生理学は、主題はなんであれ、とにかく出鱈目なことを語ったり書いたりする技術の謂となっている。普通、それは青表紙か黄表紙の小型本の体裁をとり、道行く人から、笑わせてやるという口実で二十スー巻きあげ、あげくのはては顎の骨を外してしまうという代物である。」(216ページ訳者解説)

 続けて訳者は「早い話が、今日の《スーパーエッセイ》や《金魂巻》の類が文庫になったものと思えばよく、ロマン主義やリアリズムの小説に飽きた当時の庶民が気晴らしのために読むにはもってこいのユーモア・ノンフィクションだった。」(216ページ)

 ここでいう今日とは1987年のことなので、2014年の今日、《スーパーエッセイ》や《金魂巻》と言っても「早い話」にはならないで、椎名誠とか、渡辺和博と言っても知らない人もいるだろう。よくわからないに違いない。しかし、ここで、それらが何かという解説をしている余裕はないので、それぞれ勝手に調べていただきたい。

 さて、そろそろ、本文にあたっておくと、

 「ところで、現代の政治家は、数字が即計算だと思いこみ、何かというとすぐ統計を持ちだしたがる」「それに、個人的利害と金銭に基礎を置く現代の社会では、…(中略)…数字こそは最も説得力を持つ根拠のひとつであり、またインテリ大衆なるものを納得させるには、数字の列挙以上に効力を発揮するものはない。我が国の政治家が言っているように、要するにすべては数字で解決されるのである。」(22ページ)

 数字、数字。現代のお役人も数字は好きらしいが、当時からすでにそうだったようだ。しかし、その数字は、単なる数字の羅列であって数学ではない(ひょっとする算数ですらない)場合も多い。

 そうそう、司書が登場している。

 「司書、大臣秘書官、現金出納員、建築家、海外視察員などの…(中略)…役人たちは、役所ではほとんどお目にかからないにもかかわらずちゃんと俸給をもらい、ときたま現れてはまたすぐに姿を消し、そのうちふたたび現れるというような意味で幻想的な存在であるといえる。かれらは、閑職、つまり《気楽な稼業》の最後の占有者である。」(59ページ)これは、もちろん、現代の公共図書館の司書ではないことに留意いただきたい。決して「閑職」などではない。

 「下院、貴族院、大臣、国王などは…(中略)…これら五つの閑職(司書ほか上記の五つ)を保存するようぜひ努力して欲しいものである。何人かの大詩人や、売れない作家たちが糊口を凌ぐための道なのだから。教授や司書といった、いわゆる文学的な地位は、それほど多くはないので、居心地もよく実入りもよいこうした素晴らしい閑職を廃止するようなことは断じてあってはならない。」(61ページ)

 念のため繰り返して言っておくが、これは現代の司書のことではない。しかし、当時、司書は教授と並べて語られるような地位だったのだろうか。なるほど。

 「各省の司書が責任をもって関連知識を身につけ、その省に必要な本や計画、改良案などを即座に教えることができるようになったらその司書は、当該官庁にとってはたいへんな戦力となること請け合いである。だが、その場合はかつてのヴェネチアにあった大臣顧問のような存在になり、これだけの知識を持つ人間をそばに置いておくためとあらば、どうしても二万フランの俸給と副司書が一人必要になってしまう!神よ、こうした生き字引が存在し続けんことを、アーメン。」(62ページ)

 実のところ、司書というものは、こういう存在である。絵空事ではない。

 いま現在、声を大にして言いたいところだ。

 確かに理想論ではあるかもしれず、すべての司書がそうだというわけでもないが、そういう存在であり得るということは確かなことなのだ。単なる空想論ではない。

 現在の県や市町村において、公共図書館の司書はこういう存在でもあり得る。そういうところを目指すということは必要なことであるとすら言える。

 二万フランが、現在の日本でどのくらいの金額なのかは知らないが、役に立つ司書は、それにふさわしい待遇を受けるべきであることに間違いはない。

 おっと、少し、司書のところでヒートアップしてしまった。

 バルザックのこの本は、全体として軽いお笑いの本ではあるが、訳者のいう通り、現代のお役人にもあてはまるところも多いといえる。

 しかし、実は、本文もだが、このあとに付録、役人文学アンソロジーとして、同じ訳者の3つの文章が付いている。ひとつは、バルザックの小説「役人」の概要と抜粋。

 これが、読みごたえがあった。気鋭の課長の、局長になれない挫折の物語でもあるが、中に出てくる行政改革の案というのが出色である。これは、どうも、バルザックの単なる創作ではなく、「以前、バルザックが代議士に立候補した際の政見をそのまま引き写したものにほかならない。」(223ページ訳者解説)

 もちろん、それだけでなく、ぐいぐいと引き込まれる話の筋も面白い。

 そして、フローベール、モーパッサンのエッセイ。懐かしい。この3本の文章自体ははじめてなのだが、そこに描かれる世界というか、文体というか。

 そういえば、しばらく、フランス19世紀小説を読んでいない。小説と言えば、何と言っても19世紀フランス。まさしく、バルザック、フローベール、モーパッサン、そしてスタンダールか。

 それにロシアだな。ドストエフスキーなど。

 晩年は、そのあたりをゆっくりと安楽椅子に座って読みふけることで過ごしたいものだ。バルザックの「人間喜劇」は、まだ本当の一部しか読んでいない。

 そうだな、人生のどこかの時点で評論から小説にシフトする。もっぱら小説読みをこととする。そういうのが理想かもしれないな。読んで、それから、その本のこと、その本に触発されたことを書く。その本が、ほとんど小説になる。


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