ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

夕べの酒井俊は、徹底的に自由だった。

2023-11-24 15:28:13 | エッセイ
 気仙沼市南町ヴァンガードで、久しぶりに、酒井俊のライブ。ヴァンガードを守り支え続けた、酒井俊にこだわり続けた故昆野好政氏の7回忌を偲んで、開催された。
 アルトサックスの林栄一、ピアノの田中信正とのトリオで「だいだらぼっち 東北への旅・初冬」と題したツアーの一環である。11月22日は古川TOUSA、23日は気仙沼ヴァンガード、24日(金)仙台KABO、25日(土)山形ちゅうしん蔵、26日(日)は、再び仙台KABO。

 酒井俊といえば、超絶技巧、圧倒的な肉声、正確なリズムと音程、ハスキーでありながら美しく吹っ切れた大音量の発声、ギターの早引きならぬ早歌い、しっとりと抑えた艶のある長音と、まったく欠けるところのない完璧な、生身の音楽家である、と私は思っている。
 夕べ、マイクは持っているが、お腹のあたりに留めている、一瞬、最も近づけるときでも優に30センチメートルは離れている。マイクなしのアルトサックスやピアノの音に対抗して、聴衆の聴きやすさに配慮して、若干音量を補足する程度の意味合いである。(林氏のアルトサックスも、生で驚くほどの音量であった。)
 これまでのヴァンガードにおけるライブにおいて、酒井俊は、そういう音楽を聴かせてくれた。
 しかし、今回の酒井俊は、これまでの完璧な完成を超えた音楽を聴かせてくれたというべきだろう。夕べの酒井俊は、徹底的に自由であった。勝手気ままに、自分のやりたいことだけをやっていた。ある曲では、声を張り上げて叫んでいた。絶叫していた。
 フリージャズだった。
 世のフリージャズの歴史を辿っても最良の演奏のひとつというべきではないだろうか。
 林氏のアルトサックス、田中氏のピアノも、もちろん、フリージャズである。(フリージャズと銘打った演奏を、生で聴いたことはないのだが、これはフリージャズ以外の何ものでもないだろう。)
 林氏は、アルトサックスの管から、楽音ではない雑音を吹き出し、そこから見事に音楽に復帰させる。田中氏は、律儀に、鍵盤をすべて使う以外の音は使わないが、エネルギーを発し続ける。ふたりのフリージャズに支えられて、乗せられて、酒井俊もフリージャズを歌いきる。
 数十年前には、この手の音楽は実験としてしか存在し得なかったはずだ。聴衆も、実験に参加すべく緊張して背筋を伸ばして苦行のように時を過ごすしかできなかったはずだ。
 しかし、酒井俊は、勝手に自由気ままに、絶叫も織り交え、かすれて音程がフラットする瞬間も厭わず、聴衆に送り届ける音楽として成就させた。完璧な超絶技巧を超えたというべきだろう。
 私たち聴衆にとっては、この日のヴァンガードは、至福の時空であった。
 ライブの終わり近く、サックスの林氏が若干舞台を外された隙に、酒井氏は、何か声を発し始めた。「風が吹く…」と、次の曲はボブ・ディランの曲と紹介されていたので、「風に吹かれて」のことをお話になるのかと思っているうちに、アカペラで、歌が始まっているのに気づいた。セットリストにはない曲目であろう。「満月の夕べ」。そもそもは阪神大震災の後につくられたというが、震災の後の気仙沼を歌った、ともいうべき歌である。この曲に限っては、客席から唱和する声が聞こえた。酒井氏が、途中で歌詞が途切れる瞬間もあってのことである。(ボブ・ディランの曲は「I shall be released」であった。)
 終了後、酒井俊と田中信正のデュオによる2枚組アルバム「Night at the Circus vol.1」を買い求めた。2枚目は、バイオリンとパーカッションがゲストとして参加したライブ盤である。
 今回のライブでは、この際の(スタジオ、ライブ双方の)録音曲目から、多くが取られていたようである。








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