今夜の酒井俊のライブは圧倒的だった。今日この日、ここヴァンガードは、地球上でもっとも刺激的で衝動的で前衛的で魂の深いところが揺さぶられるような幸福な音楽が演奏された場所だった、と言って過言でないに違いない。
Shun Sakai & The Long Goodbyeとして、田中信正 ピアノ、類家心平 トランペット、瀬尾高志 ベース、そして、酒井俊 ヴァ―カル。純粋な第一級の音楽。ジャンル分けを超えた超絶技巧の純粋音楽。しかし、テクニックのみで楽譜をなぞるというたぐいの音楽ではない。肉体があり、感情がある。
そしてその感情は、聴く人におもねった出来合いの安易な感傷ではない。純粋に深いところから揺すぶりだされるような感情。
ここ気仙沼にいて、そんな経験ができるはずがない、などというのは思い込みに過ぎない。そんな無用な先入観は捨てるべきである。素直に良いものは良いと言うべきだ。グローバルな体験は、グローバルに、地球上のどこでも体験しうる可能性があるのだ。もちろん、この気仙沼にいながらでも。
ベースが、前衛的なフリージャズであることはまちがいないが、戦後の歌謡曲、70年代のフォークソング、民謡、唱歌、タンゴ、シャンソン、クラシック、現代音楽、現代詩、落語、浪曲、ポップ、ロック、ブルース、そして、オーソドックスなジャズとごちゃごちゃと乱雑に混ぜ合わせ、しかし、そのどれにもおもねらず、そこから純粋なこの場の音楽のパフォーマンスに昇華されるような。(ここには、今ふうの聴きやすいJポップだけはない、と言えるかもしれない。)
場所で言えば、東京銀座、パリ、ベルリン、ブエノスアイレス、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコ、イーハトーブ、そして気仙沼ベイ。
知っている曲は一曲も出てこなくともいい、耳にやさしいメロディも出てこなくともいい、ただ、3人の楽器の音と酒井俊の声さえ聞かせてくれればいい、それでステージが成り立ってしまう、聴衆も満足してしまう、というくらいの勢いだった。
しかし、まあ、曲目はある。その曲の中に、そうだな、人名で言うと、美空ひばりや笠置シズ子、ジョニ・ミッチェル、ジャニス・ジョップリン、フランク・シナトラ、ビリー・ホリデイ、越路吹雪、マリリン・モンローなど、断片的な素材として投げ込まれている。しかし、そのどれもが、決定的な影響とはなっておらず、すべてが酒井俊そのものとなっている。あるいは、酒井俊ですらなく、ひとつの純粋な声と歌に昇華しているとうべきか。
たとえば、一曲上げれば、金比羅船船は、あの民謡だが、ワンコーラス歌うごとに、半音づつ上に転調していく、テンポもずんずん早くなっていく。ワンコーラス終えて無調化した伴奏の中で、まず歌が、半音転調して、そのあとに楽器がついて行くと、正確に音程は合っている。これを半オクターブは繰り返す。信じられない超絶技巧である。
そのあと、「満月の夕べ」。
実は、最近、毎日繰り返しCDを聴いていたが、今夜はそのCDをもはるかに凌駕する歌唱であった。まったく無音の状態から時間をかけてようやく「風が吹く…」と唄い出す。その瞬間、背筋になにかが走る、そして全身がふるえる。
「風が吹く港の方から/焼けあとを包むようにおどす風…」
この歌は、もともと阪神大震災のあとに作られた歌らしいが、ひさしぶりにやってきた気仙沼の状況に思いを重ねていただいたものと思う。
先日、テレビで某女優がこの歌を歌っていた。役者の歌であり、それはそれで可とすべきであるが、そのあと、繰り返し、酒井俊のシングルCD(前に、やはりヴァンガードでのライブの折買い求めていた。)を聴いていた。比べてどうこうなどという野暮なことは言うべきところではないが、酒井俊の歌を繰り返し聴いていた。今夜の歌は、さらにそれを凌駕した。
アンコール前の最後の曲は「花巻農学校精神歌」。花巻農学校と言えば、もちろん、宮沢賢治の作詞作曲。最新のCDのタイトルでもあり、実は、今回のツアーのタイトルでもある。宮沢賢治の詩、童話だけでなく、楽曲もまた評価されるべきものかもしれない。
実は、今週は、金曜日には近くのお寺で、土曜日は仙台で、まったく違う行事のなかで、宮沢賢治の話題を聴いた。そして、日曜日、今夜のライブ。
アンコールも終えて、9時過ぎて、ヴァンガードを出ると、港の方から風が吹いていた。もちろん冬の風のようではないが、強く冷たい風であった。
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