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ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

坂本龍一と東北ユースオーケストラメンバーによるピアノ五重奏を聴いた

2019-08-09 23:03:54 | エッセイ

 ~ブリリアントカットを施したダイアモンドのような多面体~

 

 8月7日、岩手県陸前高田市で開催された三陸防災復興プロジェクト2019のクロージングセレモニーに行ってきた。

 気仙沼高校の同級生の村上弘明が朗読者として出演し、坂本龍一の演奏が聴けるというので、さっそくファックスで申し込み、抽選の結果、当選ということで、出かけてきた。

 7月の休みに、お隣の陸前高田にドライブがてら、やぶやのそばを食べて、埋め立ての終わった元々の中心街に復興した図書館のある商業施設アバッセで、プロジェクトのポスターとフライヤーを見つけた。

 気仙沼では、この情報はまったく流れていなかったと思う。村上弘明とは、高校卒業後、そうだな、大学生時代に、東京で一度くらい会ったことがあるかもしれないが、あとは、テレビの画面でお目にかかっているのみである。前に、市役所観光課にいた時代、気仙沼と陸前高田を含む広域エリアの観光パンフを作るとき、彼に大船渡線で気仙沼高校に通った思い出など書いてもらったことがあるが、その際は、事務所経由でのやりとりで、直接話すことはなかった。(パンフの文章は、書いてもらった、というより、私が文案を書いて、了解もらったのではある。市役所職員の重要な仕事の一つに、挨拶等のゴーストライターを務める、ということがある。)

 最近のテレビのバラエティ番組を見ていると、彼本来の人の好さ、やさしく素直な人柄がよく表れていて、好ましい思いで拝見している。

 今回のストーリーテラー、朗読者の役割は、滑舌よく、俳優としての実力も顕わであった。しかし、司会の岩手放送のアナウンサーとのやりとりでは、最近のバラエティ番組で受けているゆえんのたくまざるユーモアの片りんも窺えて、私など、2階席から大笑いしかけて声を出してしまったが、会場は静かに彼のトークに聞き入っているようであった。(笑い声を出したとたん、妻には、片手で制止された。)

 彼については、そのうちに気仙沼高校の同窓会の折にでもお呼びできる機会があればと希っている。

 イベントでは、高田高校の生徒たちや、震災後、高田、大船渡の岩手県気仙地域に移り住んだ若者たちの取り組みの報告が行われ、なかなかに聴きごたえのある、地域の、日本の未来に希望をもっていいんじゃないか、と思わされる内容であった。これは詳しく紹介すべきものでもあるが、その任は、他の方にお願いできれば幸いである。

 その中で、岩手県立不来方高校の合唱については触れておきたい。

 この合唱部は、全国コンクールで優勝経験もあるとのことだが、県南の高田でのイベントに、盛岡の高校でもあるまい、などと軽く考えていたところであった。

 ところが、そういう私の予断は、まったく的外れのものであった。

 不来方高校合唱部の合唱は、素晴らしかった。女声、男声のそれぞれのパートが、別々のものではなく、ひとつひとつくっきりとしながら統合され、大きなエネルギーに満ちた一塊の和声として聞こえてくる。圧倒的であった。冒頭、オープニングの一曲でノックアウトされた。改めて登場した後半の本格的な合唱曲「くちびるに歌を」、さらに「上を向いて歩こう」、中島みゆきの「時代」と、不覚にも涙が込み上げてくる。続けて、会場の皆さんもご一緒にとステージから降りて促すメンバーもおり、曲目は「花は咲く」、「故郷」であるが、なかなか聴衆に歌声は拡がらない。これは、自分たちも歌って楽しむより、むしろ、不来方高校合唱部の皆さんの歌声を聴いていたい、という想いの表れであった、のだと思う。

 素晴らしいパフォーマンスであった。

 ここまででも、岩手県内において、あるいは、全国レベルとしても、ひとつのセレモニーとして高度に成立していた、と言って間違いない。大きな拍手が起き、実際に立ち上がることはできなかったが、スタンディング・オベーションすべき水準であった。

 ところがしかし、である。

 最後の坂本龍一とユース・オーケストラのピアノ五重奏、当初のプログラムでは、4時15分にすべて終演するとのことであった。15分の休憩をはさんで開始は、4時近くにはなっていた。ひょっとすると、一曲かそこらで終わるのかと、そうであるならもったいない、残念だなとの思いはあった。

 休憩が終わると、大学生2人、高校生2人、ヴァイオリン2本、ビオラとチェロが登場する。4人が席につくと、坂本龍一が登場し、ピアノの前に座り、無言のまま演奏が始まる。ピアノ五重奏である。

 弦楽器の美しい不協和音に乗せて、ピアノが奏でられる。美しく、かつ、不協和なままの不協和音である。ドビュッシーのような音の響。あるいは、モーツァルトの四重奏曲のように聴衆を驚かせる不協和音。しかし、モーツァルトの時代の聴衆のようにどよめくことはなく、あくまで美しく、静かに聴きいらせる弦楽器の和音、ピアノの旋律。

 一挙に会場の空気が変わった。それまでの三次元の世界が、四次元あるいはそれ以上の異次元に飛び込んでしまったかのような。

 一曲終えた坂本龍一のMCによれば、最初は、「Kizuna311」という、震災の直後に書かれた曲であったらしい。絆ということばが広く流布するまえのタイミングである。続けて、「アクア」 (水の意のラテン語)、映画「ラストエンペラー」から「レイン」、YMO初期の「ビハインド・ザ・マスク」、「ラストエンペラーのテーマ」、最後にアンコールのように「戦場のメリークリスマス」。(曲目は記憶によるので違っているかもしれない。)

 ユース・オーケストラの4人は、ひょっとすると、本当に高度なテクニックを有する第一級のプロ、ということではなかったかもしれない。もう少し端正に、協和した和音として聴かせることができなかったということなのかもしれない。

 しかし、そんなことは問題ではなかった。問題ではなかった、というよりも、不協和な音を不協和なまま内包した美しさ、一種巨大なエネルギーを内に秘めたかのような静謐さ。

 震災の後の現在を象徴する音楽と成りえていた、のだと思う。

 一挙に、いま現在の世界の頂点に立ってしまったかのような。

 東北の海岸の片隅の小さな町の体育館が、このとき、地球という球体の、最も高い位置に位置づいてしまったかのような。

 そんな時間であり、空間であった。

 音楽家・坂本龍一が、この時空を作った。

 この日の、この場所での坂本龍一の芸術は、そういうものであった。

 もちろん、正確に言えば、坂本龍一ひとりの力ではない。

 しかし、坂本龍一の音楽の力で、このイベントは、セレモニーは、きらびやかに輝く、多面体となった。平面に羅列された図面が、一挙に立体化して、高度に現実化した。

 これこそが、芸術と呼ぶべきものである。

 村上弘明や、高田高校の生徒、移住した若者たち、そして不来方高校合唱部、それらがすべて多面体の中に確実に存在し、何層倍にも輝きを増した。

 まるでブリリアントカットを施したダイアモンドのような多面体が、そこに生成したのだ、と私には思えた。

 終演は、5時10分前となっていた。

 ここから先は蛇足になるが、7月に増刷した私の4冊目の詩集「湾Ⅲ2011~14」は、震災の後に書いた作品をまとめたものだが、冒頭に「水」、「波」と、震災などは経験しなかったかのような静謐な自然の姿を描き、終結部に「ありがとう」、「笑うクジラ」と置いた構成が、今回の坂本龍一の「アクア」とか「レイン」とかを含むセットリストにシンクロしているように思えてならなかった。勝手に、有難いことと思っている。



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