大分市内から別府・国東半島を望む
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魂と空間の掃除人・サポーター(式神)使いのアダチです。
このブログは 、
日々の気付きや、
見えない世界からの依頼での対応を
妄想覚書として、つれづれに綴っています。
かなりな妄想ですので、無理な方は無理なさらずw
妄想エンタメとして楽しんで下さいませ。
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ここのところ
自分の中のある感情に向き合っている。
私の中には
自己主張することで、
バッシングされたり、
人間関係が壊れてしまうことへの強い恐れがある。
それはもう 恐怖心に近い
😆
だから、なるべく言わなくて済む事は
言わずに済ませようとする
つまり、事なかれである。
そんな自分の感情に向き合いながら、
気付きがあったので、
Facebookに投稿したままを転載する。
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日本人は自尊心が低い
だから、鬱が多い。
それは、
日本が、イエスのエーテル体の上に作られた国だから
自己犠牲が 日本人の集合無意識にあるからだそうだ。
たちが悪いのは
日本人には 自己犠牲を美徳とする風潮がある。
(この辺りは 金子先生がこれまでに対応された)
自己犠牲は美徳なのか?
それは美しいのか?
疑問だ。
9月〜10月と 妄想対応のフェーズが、それまでと変わったように感じている。
リアルにダイレクトに繋がるように感じている。
上手く言えないのだが…
妄想対応と現実が、ダイレクトに繋がっている感覚がある。
自分軸の時代
一人一人が神だと思い出す時代に
日本人の自己犠牲は美徳ではなく、足を引っ張るのではないか?
最近 そんな事を感じている。
令和に入り、本格的になっているのではないだろうか?
自己犠牲をして、日本を支えてきた
幾多の魂があると思う。
複雑な想いがあるのではないだろうか?
日本人の自尊心の低さは、
戦後の教育の影響だと思っていたが、
それだけでなく、根本的なものが有るかもしれない。
もう、自己犠牲は美徳などでないと
集合無意識が認識する必要があるかもしれない
と、妄想する。
自尊心が低いと奢りという鎧を着る。
奢りは自尊心ではない。
それは 自分軸とは言えない。
等々 感じる。
それと
自己犠牲に通じる話しで、
和を持って尊しとなす
もある。
確かに 和を尊ぶのは素晴らしい。
でも、それは反面、
和を乱す事が悪 に通じている。
和を乱す事が悪は
自己主張を抑え込んでしまう側面がある。
自己主張をしない事が善となる。
自己主張する事が、和を乱すのではない。
和を乱す事が 自己主張すること
和を乱さないのは 自己主張しない事
という勘違いがあるように思う。
それが日本人の自分軸を遮っているのではないだろうか?
聖徳太子に文句を言うつもりは無い
笑笑
だが、
自分を抑え込んでいては自分軸はない
というのは言い過ぎだが、、
自己主張しないという
ある意味自己犠牲をしがちなのではないだろうか?
これも、
日本人の集合無意識の認識を変えるべきポイントだと感じている。