中川校長の五高時代の一番の事件はドイツ人教師エルンスト・エドマンスデルファーの「不敬事件」であろう。明治三十二年(1899)二月十一日紀元節の拝賀式が行われた際,エルンストが敬礼しなかったため、翌日の「九州日々新聞」学校を厳しく批判した.校長は黒本植と武藤虎太を新聞社に派遣し,全ては新米の外国人教師のため日本の儀式に不慣れなことが理由であって、他意のないことを説明し、新聞に事情を掲載して県民の疑惑を解くよう願った。
交渉は難航し、夜半に及んだがやっと聞き入れられた。またエルンストには文部省に宛てて陳謝を盛り込んだ報告書を提出させ、自らも当時の文部大臣樺山資記を訪ねて、穏便な処置を求めた。
以後、五高では、三大節及び学校の式日に教育勅語奉読するのは必ず秋月胤永(葦軒)だった。会津「白虎隊」の生き残りであった秋月が五高に赴任したのは明治二十三年九月。「倫理」の講義の際は、校長始め職員一同が列席して聴講した。
中川は常に学問研究を奨励し職員生徒の間に学問上の会合を設けると必ずこれを保護したと言う。武藤虎太等が明治三十年に「九州史談会」を発足させるとその会長を務め、二高転出後も学問の態度は変らなかったと云う。