五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

ちしほが岡 小峰墓地のこと

2011-03-28 03:39:40 | 五高の歴史
習学寮12境記の9番、ちしほが岡、紅葉岡、小峰墓地一帯のことである。

目を閉じて、右手を見れば、この岡、目の下にあり、世には、紅葉山と言うなる。その隅に昔よりの墓所ありて、秋山玉山、富田日岳等というすさだちのたくつきも、こkにあり、今は軍人のたくつき所となりにければ、一きは、人のまうのぼるも多く、かの日清のえだちにうち死し給いし大寺少将殿ののを始めとして強者どものはか、数え尽くすべきにも非ず、この丘に、紅葉する木多くして、その色のからくれをいなる、まだきしぐれの秋の末より、夕日にさらすあや錦、これに立田山姫の心ばえにもあるべからず、皆々埋もれぬ
名を留めし、昔の名たたる人、今のいさをしき人の、ちしをの隔たりてこそ、こをかくあるらめとぞ覚ゆる、大君のへにこそしなめ、喉には志なじと言えりこの真心のありてこそ、萬朶の紅葉にも顕はるべければ、文よむ窓よりうち見るにも、
  益荒男の心のさし染めてにほふちしほがをうの紅葉葉と仰がざらめや、

上記の文章は立田山小峰墓地の様子である。最初にお断りすることは漢字の部分は転載していた時読めたままでそのまま漢字変換したものである、当時の文章はほとんど平仮名使用してある。百年前までは墓の数も少なかったようで、
ここもまた現代からみれば想像できない。
秋山玉山や富田日岳等の墓は現在は観光の目玉であり、この百年の間に熊本の有名政界人や財界人もここに眠っている人も多い、
歴史を調べる上では全く観光地化の様相を呈している。ハーンの像がこの墓地の中にあると言うことで調査したが見つけることが出来なかった。
今では熊本市の墓地公園として大小の墓石が所狭ましと占領している。
一寸墓参りでもしようと思ってでかけでもしたら、前述の通りで場所をはっきり確認したうえで行かねば、石碑の名前等から見つけることは中々困難する状態である