ムネコマサン

写真付日記で~す。物忘れないうちにメモして、日々の出来事、アチコチ出かけコンデジ・一眼画像をアップしてます。

大阪城の櫓 

2017-08-16 08:44:44 | 旅行記
少し、風もあり いつもよりマシかなぁ~と思い出かけてみたものの やはり暑い夏
ですが、
徳川幕府により再構築された 大阪城の櫓見物してきました
西の丸庭園内の大手口の多門櫓から入り 棟続きの千貫櫓へ いったん出て、
 焔硝蔵(火薬庫)などを観てきました。
多門櫓脇のチケット売り場で入場券を購入、特別展なので、優待券は使用できなかった 
700円なり
多門櫓の東側通路進み 石段を登り、南側から入っていきます。
続櫓の中の およそ100mくらいの武者走り(廊下)、幅 およそ1間
(たぶん192cmの本間では)、 
右側には武将たちの控え部屋が 6室並んでます。

 ↑ 左下の石には 銃眼があります。

六畳~拾畳くらいの部屋が 6室 並んでます


途中から入り口を眺めると


多聞(多門)とは 石垣の上に作られた長屋のことで、城壁の機能と、兵士が待機、
武器の蔵として使用されていたそうです。
武者走りの角には、槍落としの開口部、銃眼も備えてあります。
この場所だけが、多聞櫓ではなく 江戸時代の絵図によると ほかにも、京橋口枡形、
玉造口枡形、桜門枡形、山里丸枡形にも多聞と呼ばれる場所はあったとか

とうとう雨が・・・ 渡櫓から 続櫓を見ると



渡櫓(大手口 櫓門の門扉の上)4室からなっています。70畳の広い部屋です。
窓から 続櫓を眺めると


広い部屋


立派な柱が 木材の加工技術が 凄いですね 現在と変わらないくらい 綺麗な形
製材技術が 凄いと思います。


次の千貫櫓へは 約15mほど塀沿いに歩き 小門をくぐり 千貫櫓の内室へ
この櫓は 大手口を北側から守るために作られており 南側と西側に窓と銃眼が
備えてありました。

2階建てになっており 武器庫の役目もあったようです。
よく見てみると 部屋の中央部がへこんいる ・・・・石垣の凹凸の影響だとか
微妙な傾斜がありました。


2階へは立ち入り禁止でした。・・・残念

火縄銃があった。 当時のものかな?





千貫櫓を後にして 火薬庫へ およそ400m程離れた場所へ 小雨の中移動 
この火薬庫は 焔硝蔵と呼ばれてます。
焔硝とは硝石を精製して作った 硝酸カリウムで、これに硫黄と木灰を混ぜると
黒色火薬ができます。
江戸時代には 完成した火薬を収める場所を 焔硝蔵と呼んでいたそうです。
豊臣時代の焔硝蔵とは別のものです。
江戸時代のままの姿で残っているのは この焔硝蔵だけだそうです。
両脇の石垣の幅が壁です 厚さ約2.4mです 中央の通路に火薬を貯蔵していたんですね
(一部パンフレットより抜粋です。)

貯蔵量は 約90トンの記録も 青屋口の焔硝蔵が爆発した際には約82トンが灰になったそうです。

内部は 単なる通路


出入口以外は すべて石で囲まれてます。

焔硝蔵西側から見ると


厚い石の壁だけでした。 

千貫櫓の外観 東側から


六番櫓


大阪城内は すべてが徳川幕府により再構築されたものなんですね 豊臣時代のものは、ことごとく
地価に埋められてしまいました。 
発掘が今も行われており 新しい史実が分かると面白いなぁと思っているところです。
新しい発見を期待してます。