私の子供の頃、子供が生まれて、暫く経つと路端などに一旦捨て、それを叔母などが拾う。儀式と言うほどものではないが、そんな風習があった。おそらく、今は無いであろう・・・昭和26年、弟が生まれたとき母達がそんなことをやっていたのを覚えている。
豊臣秀吉は、側室淀殿(茶々)との間に生まれた二男を「拾(ひろい)」と名付けた。僅か3歳で夭折した嫡男の鶴松を「捨て子は育つ」の格言に従って「棄(すて)」と名付けたのに対して、捨て子を再度拾い上げた段階に因んで「お拾い」と名付けたのである。後の「豊臣秀頼」である。
まあ、元気に育って!との願いを込めたものであったことには間違いない。
慶長19年に大坂冬の陣が起こり、翌慶長20年(1615)5月8日、夏の陣で母淀殿とともに自害し果てた。享年23歳であった。
捨てられないものに、昔の写真がある。セピア色になった1枚しかないものも、今ではスキャンすれば複製できる。
古いのを写真館で複写してもらったことがあるが、ガラスの原版と一緒に帰ってきたことを思い出す。
今では、デジカメで何百枚も撮り放題、捨てないで保存している。もう見ることも無いのに・・・パソコンの「ゴミ箱」に入れれば簡単に捨てられるのに・・・
生ゴミなどは、月水金などに指定場所に「指定袋」に入れて捨てに行く。我ながら、よくゴミを出すもんだな~自分がゴミに出レバァ~ゴミは根絶できるのに・・・
「捨てる神あれば拾う神あり」世の中、捨てたものじゃないと言われれてきているが、歳を経るほどに拾ってくれるのは「骨」位なもんかいな~最後は、切り捨て御免で「チョン、チョン」である。
豊臣秀吉は、側室淀殿(茶々)との間に生まれた二男を「拾(ひろい)」と名付けた。僅か3歳で夭折した嫡男の鶴松を「捨て子は育つ」の格言に従って「棄(すて)」と名付けたのに対して、捨て子を再度拾い上げた段階に因んで「お拾い」と名付けたのである。後の「豊臣秀頼」である。
まあ、元気に育って!との願いを込めたものであったことには間違いない。
慶長19年に大坂冬の陣が起こり、翌慶長20年(1615)5月8日、夏の陣で母淀殿とともに自害し果てた。享年23歳であった。
捨てられないものに、昔の写真がある。セピア色になった1枚しかないものも、今ではスキャンすれば複製できる。
古いのを写真館で複写してもらったことがあるが、ガラスの原版と一緒に帰ってきたことを思い出す。
今では、デジカメで何百枚も撮り放題、捨てないで保存している。もう見ることも無いのに・・・パソコンの「ゴミ箱」に入れれば簡単に捨てられるのに・・・
生ゴミなどは、月水金などに指定場所に「指定袋」に入れて捨てに行く。我ながら、よくゴミを出すもんだな~自分がゴミに出レバァ~ゴミは根絶できるのに・・・
「捨てる神あれば拾う神あり」世の中、捨てたものじゃないと言われれてきているが、歳を経るほどに拾ってくれるのは「骨」位なもんかいな~最後は、切り捨て御免で「チョン、チョン」である。