ランダムなまず庵

 何事にも一寸手を出すが人並みに出来ず、中途半端なその日暮らし・・何でもありの風来ブログ、暇にまかせて「庵」ってます。

生卵

2008-01-07 06:37:30 | これってグルメ

 私は、毎日のようにを食べています。朝食には納豆に入れかき混ぜてとか、玉子焼きとかは、日本人の定番でしょう。今では一世を風靡した「巨人 大鵬 子焼き」を偲ぶよすがもありませんが。

 私のご幼少の頃の昭和25年前後には、卵(鶏卵のこと)を食べた記憶はありません。母の実家では鶏を飼って卵を産ませていたこともあり、我が家でも母が鶏を3、4羽くらい飼っていました。その卵を当時、一個10円で売っていたので弁当のおかずという訳にはいかなかったのです。現在では10個入りパック100円前後のものもあり、当時の価値に換算すれば1個が100円は下らない高価なものだったと思います。

 そんな鳥小屋にも「青大将」がやってきて卵を呑み込み、胴体に卵の脹らみが二つくらいあり、怖いやら、やられたと悔しい思いをしたこともありました。

 昭和30年頃になると、やや余裕が出来たのか、産みたての卵を先の尖った方の殻に1センチくらいの穴を開け、そこから中身を吸って飲み込めることが許されるようになった。最近ではやったことはありませんが、今の子供には出来ないと思います。聞くところによると、孵化寸前の卵をこのようにして飲むと精力がつくという話を聞いたことがあります。ベトナムとかで。  

 「ああ飛騨が見える」 明治42年、野麦峠で一人の工女が息を引き取った。名は政井みね二十歳。みねを急作りの背負子に後ろ向きに乗せて峠の上まで担いできたのは兄辰次郎である。山本茂実の近代日本の裏面史ノンフィクション、ルポルタージュ、ある製糸工女哀史「ああ野麦峠」の中にあります。鬼も涙なくしてなんとやらであります。  

 この本の25ページだけでも読んでもらいたい。・・・・その間みねはほとんど何もたべず、峠にかかって苦しくなると、つぶやくように念仏をとなえていた。峠の茶屋に休んでソバがゆと甘酒を買ってやったが、みねはそれも口をつけず、「アー飛騨が見える、飛騨が見える」と喜んでいたと思ったら、まもなく持っていたソバがゆの茶わんを落として、力なくそこにくずれた。「みね、どうした、しっかりしろ!」辰次郎が驚いて抱き起した時はすでにこと切れていた。「みねは飛騨を一目見て死にたかったのであろう」・・・・・・

 「糸ひき」工女として13歳前後の娘が、飛騨(岐阜県)から信州(長野県)の製糸工場へ野麦峠を越えて行った。生糸の生産による富国強兵政策のため、外貨を稼ぐため、鼻をつくの蛹の悪臭に耐えて・・・・実家の貧しさを救うため身売り同然のように出稼ぎに、当然のように宿命のように、峠を越えていった・・・・・・

 そこで映画「ああ野麦峠」である。大竹しのぶ演じる「みね」、後で知ったのだが「辰次郎」を演じたのが地井武男だった。吉永小百合の再演の話があったようであるが実現されませんでした。

 ここは、なんといっても大竹しのぶである。今後再演もあるだろうが、この人以外は許されないという心境であります。  

 「ミネビョウキスグヒキトレ」という工場からの電報で辰次郎は三十数里(百キロ以上か)を三泊四日かかるところを、二日でたどり着いたのである。物置小屋に放置されたみねに、辰次郎は「これが村で美人と、百円工女と騒がれた妹みねかと・・・」昔のみねの面影どこにもなかった・・・・・・そして、野麦峠からは、死人の宿泊を断られた辰次郎は、みねを背負って帰って行ったとのことであります。

 辰次郎は、みねに食べさせたい一心で、大事に持ってきた高価であったろう「生卵」を懐から出しこれを食べてで元気を出せと・・・みねには食べる気力もなかった。このシーンが朧げに浮かんでくる。涙なくしては見ておれませんでした。「ビデオレンタル」にはあるようなのでこのシーンを、地井武男の演技も見てみてみたいものです。  

 みねの妹みよも、「糸引き」に行き同じ腹膜炎で死んだとのことである。こんな女工たちの辛い哀しい怨念の懐かしの峠「野麦峠」に、出来るだけ早い時期に立ち歩いてみたいと思っています。  

 昭和32年頃か、妹も、従姉が40キロくらい離れた「製糸工場」に勤めていたことからそこに就職した。寮生活だったが2年ぐらいで体調をくずして辞めて帰ってきました。

  賃金の未払いがあったのを雇い主が支払いを渋ったので、父が労働基準監督局かに連絡すると、すぐ送金してきたことを聞いたことがあります。                                                           妹もそれが原因とはいえないだろうが平成2年ころ、すい臓ガンで死にました。45歳位だったか。  

 中学生の頃の昭和28年頃か、病弱だった姉もどうにか元気になり、手に職をということになり、母の知り合いの家に住み込みで和裁の見習に入りました。そのとき、私は寝具などを自転車に積んで10キロぐらいのところを運んでいった。2年くらい経った頃か、姉も帰りたいということになり、私はまた自転車で寝具などを積んで帰ってきました。                                                 その家のそばに、紡績工場「東洋紡」があった。その姉も昭和57年ころ、老衰のような状態で死 にました。45歳位だったか。

 生卵、蚕、糸引き、製糸工場、紡績工場、蛇などが絡み合ったこんがらがった怨念のような「卵」の思い出であります。

 今食べている「卵」も、ただ卵を産むことだけに孵化され、身動きもままならないゲージに固定され、餌を与えられ後継者のことなど全く無視され、ただ卵を産む機械とされ、結果として、極めて栄養価も薄い形ばかりのものとして生まれたものであるのが現実でしょう。挙句の果てにブロイラーでは・・・

  ・・・・・これを「生卵峠」とでもいうのでしょうか・・・・・・

 



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2 コメント

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野麦峠 (sakurako)
2006-11-07 16:47:07
映画のシーンで、雪の峠を夢中で歩く姿が、今も目に浮かびます。
なまずさんも、いろいろ苦労を、経験したのですね。同じ世代に生きて、のほほんと、過ごして来た私には、びっくりです。今は充実した人生を送っている、良かったですね。
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お金 (なまず)
2006-11-10 06:38:14
当時は、男子も徴兵でお国のために・・お金持ちはお金を納めれば徴兵免除でした。
 女子は貧しい家のため身売り同然、峠をこえたのです。そこは家にいるよりはよかったのです。
・・・・お金は大事だよ・・・・・・
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