聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

エステル記 9章 ユダヤ人の復讐・プリムは運命の祭り その3

2009年05月07日 | 旧約聖書日記
つづき


旧約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 は、今回の内容については、略解とほとんど重複してるので載せません。

ので、
新聖書講解シリーズ エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記 いのちのことば社を、まとめます。
前半はやはり略解と重複してますので、後半部分だけ、自分なりにまとめて載せてみます。
『24節25節はエステル記の要約であると同時に、プリムの祭の発端を記している。
このプリムの祭は新しくユダヤ人の祭に加えられ、ユダヤ人の間で年々行われ続け、今日に及んでいる。
「シナゴーク礼拝において、特定の祭りの日に聖書の中からとくに選んで朗読されるものがある。
雅歌(過越祭)、ルツ記(五旬節)、哀歌(アヴの月9日)、伝道の書(仮庵祭)そしてエステル記(プリム祭)である。
これらを一括して『五巻』(ハメッシュ・メギロート)と呼ぶ。
いずれも比較的短く、しかも美しい書である。」
このように、今日もユダヤ人は、エステル9・28の「この両日は、代々にわたり・・・記念され、祝われなければならない」のみことばに従って、プリムの祭には、エステル記を朗読してこれを記念している。

本章から教えられる第一の学びは、徹底的な勝利についてである。
エステル記の読者の中には、神の民のこのような凄惨極まる殺戮の記事に嫌気のさす者も多く居るだろう。
キリスト者の標準で判断されるなら、決して弁護できるものではないと批判する者も少なくないだろう。
これについて、ユダヤ人と王妃の行動を正しく理解しようとする考え方が幾つかある。
例えば、旧約聖書の「聖絶」の観念や、ユダヤ民族を通しての神の救いの計画という救済史的観点、さらにこれを神の民の敵に対する神の正義の現れとする見方などである。
しかし忘れてならないことは、すでに学んできたように、ユダヤ人のこの行動は明らかに正当防衛であって、彼らの側から攻撃を加えたものではなかったことである。
結果的にはそれは聖絶にも、ユダヤ人から救い主が出ることにも、神の正義にも通じるものではあったが、現実において自衛権の行使以外の何ものでもなかった。
 ひるがえって、われらの霊の戦いにおいても同じことが言える。
王国の中心は宮殿である。われらの生涯の宮殿はわれらの心である。
シュシャンの宮殿に巣くう敵の残党三百人が根絶やしにされたように、われらの心中の敵の残党も徹底的に処分されなければならない。
敵との妥協は許されない。
またエステルがすでに死んでいるハマンの子たちを木にかけたように、われらの心中のハマンの残党がただに死んでいるだけではなく、その全き死を公に確認しなければならない。
かくしてわれらの王国に平和が訪れるであろう。

本章から教えられる第二の学びは、全き安息についてである。
徹底した勝利は徹底した平和をもたらし、まったき死はまったき安息をもたらすであろう。
実に勝利のあるところに平和があり、死のあるところに安息がある。
換言すれば、勝利なくして平安なく、まったき死なくしてまったき安息はないのである。
 ひるがえって、われらのたましいの世界においても同じことが言える。
新改訳聖書において、休み、安息なる語には二種類のことばが用いられている。
一夜の宿りをあらわす言葉と徹底的な休みを表す言葉である。
神はわれらにただ一夜の宿りの休みではなく、徹底的な休み、すなわちまったき安息を与えてくださるのである。
個々のキリスト者は、過去の罪が赦され、義と認められ、神との平和を経験したところから、更に、今立っている恵みへと導かれ、内心の古き人は滅ぼされ、聖霊のバプテスマによるキリストの内住によって、徹底的な休み、まったき安息、神の安息をわがものとすることができるのである。

本章の最後の学びとして、勝利の記念について学ぶことにしたい。
本章は、ユダヤ人の三大祭と並んで、なぜ今日もプリムの祭が盛大に祝われているかを詳しく説明している。
このプリムの日は、神の民の勝利の記念の日であった。
この日がプリムと名づけられたのは、人の投げるプルが人の計画をはるかに越えて、神の絶妙な摂理の御手によって神のプルに変えられたことを意味している。
単なる過去の出来事を思い出すだけではない。
この記念の日は、人の思いと計画をはるかに越えて働かれる摂理の神を覚える日であった。
 一体に聖書の記念の概念は、ある一つの客観的行為によって、想起される人物や出来事が単に過去のものではなく「今ここで」現実となる、というものである。
だから、それは単なる「記念」ではなく「再現」ということにさえなる。
われらも神の勝利や神の顧みの出来事を単なる過去のものとして記念したくはない。
神の勝利を記念することによって、日々新たに摂理の神の支えと守りと勝利を経験する者でありたい。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
神の摂理を想います。
人の思いや計画を越えて働かれる神の御手によって、わたしたちを導かれ、そして恵みを与えられていることに、感謝します。
神の摂理を信じきれますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン