聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書 8章 ファリサイ派の人々とヘロデのパン種 その3

2009年05月21日 | 新約聖書日記
つづき


新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『マルコはイエスを試そうとするファリサイ派の人々の不信仰について語った後、すぐにここで弟子の無理解をも浮き彫りにする。
14~21節はマルコが伝承を部分的に用いて構成した物語である。
ひとつの伝承は14節a、16~17節aから成っていたのではなかろうか。
すなわち、イエスと共に旅に出た弟子達はパンを持ってくるのを忘れ、そのことを心配そうに論じ合っていると、
イエスは、「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか」と問う。
イエスが共にいる場合、いっさいの思い煩いは不要であると、この伝承は教えていたのであろう。
14節aは、すでに弟子達が経験した二つの奇跡的な給食の出来事との関連で弟子達の無理解を強調するためのマルコの編集句。
舟で湖を渡るイエスの一行という場面の設定もマルコ的である。
15節のイエスの言葉は14節a、16~17aの文脈の中で夾雑物であるかのような印象を与える。
この伝承をマルコは11節のファリサイ派の人々との関連で、そしてまたパンとパン種との結びつきのゆえに、ここに置いたのであろう。

14節「一つのパン」は唯一の真のパンであるイエスを指すという象徴的解釈はマルコの文脈では成り立たない。
「一つのパン」は、すでに報じられた二回の奇跡的給食との関連で理解すべきである。
五つのパンをもって男だけで五千人の群集を満腹させ、さらに七つのパンをもって四千人を満腹させたイエスには、一つのパンをもって少数の弟子達を満腹させることはもちろん可能である。
そのイエスと共にいるのに、パンのことで思い煩い、議論をしている弟子達の不信仰が描かれる。
15節「パン種」は神の国のたとえにも用いられているが、ここでは悪い意味で、小さな事柄が大きな影響を与えることの比喩として用いられている。
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種」はマタイでは「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種」に変えられ、それは彼らの教えであると説明されている。
ルカは「ファリサイ派の人々のパン種」について「それは偽善である」と説明している。
マルコはそのパン種が具体的になんであるかを説明していないが、この福音書を初めから読んできた者には、それがイエスに対する不信仰であることがわかる。
16~21節ファリサイ派の人々とヘロデはイエスがだれであるかを理解しないが、弟子達も同様にそれを理解していない。
彼らは彼らを奇跡的に満腹させることのできるイエスが共にいるのに、しかも15節の注意にもかかわらず、なお「パンを持っていないことで論じ合っている」。
こうして弟子達は無理解という点で「外の人々」、ファリサイ派の人々、ヘロデと同一の面におかれる。
このペリコーペは、「まだ悟らないのか」という弟子達に対するイエスの問いをもって終わる。
弟子達から答えは返ってこない。
この問いは読者への問いでもある。答えは読者に残されている。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
すぐそばにいてもイエスさまを理解すること信じきることができない弟子たちを見て、自分のことと重なります。
見ていても共に居ても、不信仰のままである弟子達を想います。
見ないでも信じる者にしてください。
聖書の御言葉を読み、共にいてくださるイエスさまを理解し、信じることができますように。
お導きください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りしますm(_ _)m
アーメン