聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

イエスさま

2009年08月20日 | わたしの思い
父の介護をしていると、父の具合が悪いときは不安になる。気分が落ち込む。
で、夜に布団に入って、父の横で大丈夫かなあ。。。?と心配しながら眠る。
そういうとき、眠りに落ちるまでが恐ろしく不安で怖くてたまらない。
どうしようもなくなる。
夜も暗い、部屋も暗い、気持ちも暗い。ほんとにくるしい。
そういうとき、、、
そういうとき、「イエスさま」と心で呼びかける。
で、部屋にわたしと父と一緒に居てくださるイエスさまを想像する。
イエスさまを感じる。
そうすると、ほんとに不思議に心が静かに穏やかに落ち着いてくる。
信じられないくらいの心の平和。
で、知らないあいだに、眠れている。
でも、父の病気は24時間の痰の吸引が必要なので(嚥下できないので唾液も飲み込めず溜まって気管に入ってしまうから)、
夜中に必ず2~3回(体調不良で多いときには4~5回)起きて、父の痰の吸引をするけども。
ので、朝までぐっすり眠れることは無い毎日だけども。

イエスさま、イエスさま(o^^o)
ありがとうございます。
いつも共に居てくださると、約束してくださるイエスさまm(_ _)m
おかげで、毎日父の介護ができています。

あなたの生きがいは何ですか?

2009年01月07日 | わたしの思い
「あなたは自分の生きがいを見つけられましたか?」
、、、って、今日来た家計簿ソフトからの広告メールの題名ですが。。。

わたし、すぐに言えました(o^^o)
イエス様ですね。生きがいです。
最近、わたし、聖書通読もちょこちょこしかできてないですし、礼拝にも2ヶ月くらい事情があって行けてないですし、お祈りもままならないことが多かったですし、わたしって本当にイエス様を好き?かしらん?ほんとう??ほんとうに??って自分で自分をさぐるようなところがあって。
まあ、信仰があるとはっきり言い切れる人がどれくらい居るのかは分からないですが、自分の信仰って、どうなん??って、よく思ってるんですが。
まあ、自分の感情がどうこう言ったって、神様のほうでは、いつも恵みは与えてくださっているわけで。
信仰っていっても、降り注ぐ恵み、聖霊におまかせするしかないところも多いわけですが。。。
まあ、何言ってるんでしょう。。。
とりあえず、そんなあやふやな、信仰といえるものがあるのかどうか自分でも確信できない私ですが、
でもね、この今朝来た広告メールの題名である問いに、すぐに答えられたんです(o^^o)わたし!
これって、すごくないですか?
やっぱり、わたしって、自分で分かってないところで、しっかりイエス様にとらえられてるってことが、自分で理解できた感じです。

わたしの生きがいは、イエス様です。
これからどんなことがあっても、イエス様はわたしを生かし続けてくださることと思います。
イエス様が導いてくださる、イエス様の後を、とぼとぼと、よろよろと、あるいはしっかりと、あるいはコケながら、でも、わたし、ついていきます。
手をとって離さないで導いてくださるイエス様についていきます。
よろめいてコケて立てないときでも、わたしをおぶって歩いてくださるイエス様にすがります。

感謝ですm(_ _)m
アーメン

歳を取るってね。。。いろいろ考えるわけです。

2008年06月23日 | わたしの思い
年をとるってことは、いろいろ考えるってことですよね。
時間はすべての人に平等に過ぎていって、だれも不公平がないんですよね。
やから、時間をどうつかうか、どう年をとってきたかってことは、自分の責任のわけです。
まあ、運命っていうか、自分でどうしようもない出来事が降りかかってくることも多々ありますが、そのときの対応や選択も含めて、自分で進んできたわけです。
この年っていっても、もっと年配の方もおられるし、その方々からしたら、わたしはまだ若い、何言ってるんだ?って思われるかもしれませんが。
まあ、女47歳、もうじき48歳になると、人生でいうと、上り坂を過ぎて頂上をすぎて下り坂に入ってる、そう今は下っていってるわけですね。
で、下った先のことも常に考える年なわけです。
自分で自分のことができるうちはいいんですよね。
努力したらできるってことは、ほんとうに感謝で、幸いで、すばらしいことです。
でも、自分でどうしようもなくなる、そういうときが必ず来るわけです。
自分以外の方々にお世話になってしか、生きつづけることができないときがくるわけです。
でも、大きく考えたら、生まれて死ぬまで、人間は一人では生きられないもので、常に助け合いながら生きているわけでもありますが。

よく、年をとったら、長患いせずに寝たきりになって他人様に迷惑かけずに、ぽっくりと死にたいと言われますが。
これほど、傲慢なことはないですね。
そんなこと、病気で長患いしている父親や介護している私から言えば、何言ってるんだ、何傲慢なこと言ってるんやと思います。
そんなこと、神さまでしか決められないし、自分で望むものでもないですもの。
長患いして、ぽっくりいかなくたって、他人様に迷惑かけて長生きしたって、いいじゃないですか。
それでも人間は生きる意味があるんです。生きていく必要があるんですよ。
それは神さまが生かしてくださってるからなんですよ。
自分の力で生きているなんて傲慢なこと考えてると、間違った方向に行ってしまいます。
テレビでいろんな人が、寝たきりにならずにぽっくり死にたいとか、寝たきりで長生きしたって意味が無いなんてことを、平気で言ってますが。
その言葉を聞くたびに、腹が立ってきます。
まあ、そういう人たちをも、神さまは赦されておられますけどね。

いろんなことを考えると自分の中でも矛盾があります。
人には厳しく自分に甘く、総論賛成各論反対、まあ、そんなことばかりです。
頭の中では、いろんな感情がうずまいています。
その時々で気持ちも考えも180度変化しています。
まあ、人間ですから、それも当然かもしれません。感情の動物ですから。
人間感情が先で、理屈は後でひっつけるものです。

私は今が一番幸せです。
この先のことは考えられません。いや、考えていますが、考えたくない気持ちもあります。
考えるとドツボにはまることもあります。
考えても、どうにもならない方向へ進んでいくこともあります。
この先のことは、不安でたまらないですが、自分でできることはやって、あとは神さまに委ねるしかないことです。
風に乗って舞う鳥の羽のように(フォレストガンプという映画に出てくる映像です)、神さまに持ち運ばれて行く人生を送ろうと考えています。
そのときどきで、不安や不満や憤りや悲しみや苦しみ、いろんな事にでくわすわけですが、すべてを益にしてくださる神様にゆだねて生きることができますように。

最後は、お祈りになってしまいましたm(_ _)m
いろんな考えは、結局は、最後は祈りになるのかもしれないですね。

聖書を贈った

2007年12月21日 | わたしの思い
今年のクリスマスには、父に関わってくださっている方たちや、私の友達に、聖書を贈ることにした。
訪問看護婦さん、デイケアの看護婦さん、ヘルパーさん、知人、友人。
(職業柄、プレゼントを受け取れない会社もあるので、あげれる方たちだけに。)
いままでも、仲の良い友達にアートバイブルを贈ったりしたけども、今回は新約聖書。
読んでくれたら嬉しいけど。。。。どうかなあ。
それに、聖書だけ読んでも、ちっと分からないところが多いからなあ。。。
できたら、教会に行ってほしいし、注解書を買ってもほしいし。
まあ、そんなことは無理かもしれんけど。

できたら、聖書を手にとって、開いて、少しでも読んでくれたらなあ。。。と、思っています。
お祈りしますm(_ _)m

CD聖書を聞きながら、聖書を読む。

2007年10月07日 | わたしの思い
最近、いや、わたしはもともと活字が大の苦手で。
読書も小さい頃から大嫌い。(マンガは大好きやったけど、今はもう見なくなった。)
どうしても読まないといけなかったのは学校の教科書くらい。
まあ、その程度。

ので、聖書を読むのも、注解書を読むのも、わたしにはかなりの大変な作業でして。。。

そんなわたしが、最近見つけた、楽な(←不謹慎?)聖書の読み方。
CD聖書を聞きながら、聖書を開いて見る。

そしたら、自分で字を黙読しているよりも、かなり進む。かなり頭に入る。
ちょっと止めたいときには、CDを一時停止。また繰り返しもできるし。
そうすると、自分で黙読してたときとは違った言葉が頭にズンッと入ってくる箇所がある。
黙読とは違う言葉が「光って見える」。

この「光って見える」っていうことについて。
昔、ある牧師さんが、聖書を読んでいくと、言葉が光ってみえるところがある。。。って、わたしに教えてくれた。
ほんとに聖書の文字がピカッと光るってわけないけども、読んでいくと、心にズンと響く言葉がある。。その文字がその言葉が他のところよりも光ってそこだけ目に焼きつく。
他が暗くみえてその言葉だけが明るく照らされる。
ほんとうに、そういうところがある。
ハッと気がつく言葉。そうか。。。と納得する言葉。心がスーッと軽くなる言葉。重たい重たい肩の荷が一瞬にして重さが無くなっていくような言葉。涙がこみ上げてくるような言葉。
ほんとに、ほんとに、沢山光って見える。
読むたびに、違う言葉が光るんやけどね。
読むたびに、違う理解ができたりするんやけどね。不思議やね。

まあ、そんなこんなで、活字大嫌い人間のわたしでも、そんな言葉を持てることはありがたいことですm(_ _)m

さて、わたくし、40代も半ばを過ぎてきますと、小さな字がとても読みにくくなってきました( ̄□ ̄;)
ああ、老眼。。。
で、ホームセンターで安い老眼鏡をば買ってきました。
これ、一番軽い度の物ですが、結構字が読みやすいです。
ほんと便利です~~~ありがたい~~~

めがねをかけてみましたが。。。さて、似合ってるでしょうか?????まあ、本を読むときだけやし。。。(⌒◇⌒;)

祈る

2007年03月04日 | わたしの思い
去年の12月、今年の2月と、
2度も父が入院して、そのたびに何度も吐いて、高熱が出て、辛そうな父を心配して、精神的に疲れ果てる。
父の付き添いで一日に2度病院を往復して、体力的にも疲れ果てた。
2度目の入院の時は、わたしも風邪になって熱が出てしまって、辛かった。
父は退院してからも体調はまだまだ不安定で、その心配のせいか、わたしに目眩と耳詰まりと難聴が出てしまった。天井の蛍光灯が回る。しんどくて動けない。
耳鼻科の診察で、三半規管に水が溜まったということで、薬を飲んでるけども、いまだに、ぼつぼつしか回復しない。
こんなに長引いてしんどいものやとは思わなかった。

そんなこんなの大変な冬やったので、世間では暖冬といわれていて、なんだかそんなゆったりした感じを持つ暇もなく、この冬が終わった。

自分の体調が悪いときや、父の体調が悪くて入院しているときは、
聖書を読むこともできず、礼拝にも行くことができず。
辛いときに限って、教会や御言葉から遠ざかることになるので、なんだかよけいにしんどい。
でもね、体調が悪くて辛いときでも、祈ることはできる。
祈って叫ぶ。祈って愚痴る。祈って救いを求める。祈って泣く。祈って助けを求める。
やっぱり、クリスチャンでよかったと思う。
祈ることができる恵みを感じた。
とうてい、一人では抱えきれない状況が襲ってくるんやけども、そのたびに、祈って祈って祈って嘆く。
祈って祈って愚痴って。。。なんとかその状況を乗り越える。
その状況が通り過ぎるのを待つ。
で、あとから気がつくんやけども、やっぱり、神さまが見守ってくださってたと分かる。
イエスさまが、その辛いとき、そばにいてくださったと分かる。

祈ることができる、恵みを感じる。
一人ではないと分かる。

主に感謝m(_ _)m

ああ、不眠症。。

2006年09月21日 | わたしの思い
今のお仕立て物のチェック柄が、ストレスなのか、、、
それとも、この2、3日急に増えた父親の痰の吸引がストレスなのか、
秋口に入って、夏ばてで体調が崩れてきてるのか、
他のことでストレスなのか、
とにかく、最近、夜に眠れない(†〇†)なぜ?
今まで、夜中に父の痰の吸引で毎日2~3回は起きてきたけども、吸引し終わって横になったら、またすぐに寝付けていたのに、
今は、ぜんぜん寝付けない。。。( ̄□ ̄;)ううう

わたしは、自慢じゃないけど、どんなときでも眠れる性格なわけで。
電車の中でも、父親が病気になったときでも、自分の悩みがあるときでも、なんせ眠れてきたわけで。
(あ、例外は、29歳のとき食事が摂れなくなって通院や入院したときは、不眠症になってて、どうしても眠れなかったけど)

ああああああああああああああ
眠れないと、イライラしてくる。
なにがストレスか考えてしまう。
昼間に体もだるいし、動くのが辛くなる。
早く寝たいと思うと、よけいに寝付けない。。。

夜に眠れないと、かえって昼寝もできない。
まあ、昼に眠れるときは、夜も眠れるわけで。不思議やけど。

とりあえずは、父の痰が落ち着いてくれることを祈り、
今のチェックのお仕立て物を早く片付けてしまうように努力し、
あとは、なるようになるやろう。。。
今日は、ぜんぜん関係ない愚痴を書きましたm(_ _)m
(ブログで愚痴ると、案外気持ちが楽になるんよな。。。感謝)

感謝

2006年01月26日 | わたしの思い
おとつい、火曜日は、スケジュールの忙しい日。
昨日の水曜日は、父ちゃまの予約診察日。
で、今日は、午後からウンチが出たので、ウンチの処理(力仕事)をばしておりました。
ので、ここ3日間ほど、ハードであった。。。
疲れたぞ(⌒◇⌒;)
おかげで、お仕立て物(洋裁)も、はかどってないし。。。焦る( ̄~ ̄;)

昨日の夜中は、父ちゃまの痰の吸引に、2回起きた。
マルの出し入れにも、2回起きた。
思うけど、ここ、何年も、夜中に何度も起きて、痰の吸引をする生活をしてるので、
6時間とか7時間くらい、ぶっ通しで眠ったことがない。
もう、ぶっ通しで寝るって感覚は忘れている。
でもね、それでも、人間は、ちゃんと生きてられるって、分かった。
人間はすごいね。
神さまは、ちゃんと、どんな睡眠の取り方でも、生きられるように、人を造られて、生かしてくれてる。
感謝ですm(_ _)m

聖歌隊

2005年09月20日 | わたしの思い
洗礼を受けた年のクリスマスには、聖歌隊で賛美ができて感謝でしたm(_ _)m

今、考えてみても、クリスマス賛美ができたのは、神の恵み。
その年には、もう、父は痰が酷かったし、わたしがそばにずっと居ないと、誰も父の痰の吸引する人が居ないわけで。
父を一人家に残して、わたしが聖歌隊の練習や、クリスマス賛美に参加できるはずもなく。
聖歌隊のクリスマス賛美は、クリスマスの午後から夜までもあるし。
ほんとは参加できてなかったはずで。
でも、偶然?、父の風邪が長引いて、入院することになってしまって、
父が入院したおかげ?で、わたしは、聖歌隊の練習にも、クリスマス賛美にも参加できました。
今となっては、その年の、一番の不思議なできごと。
クリスマスの賛美も無事終わって、そのすぐ後には、父も元気になって退院できたし(o^^o)
神さまが、父を、無事にあずかっていてくださった、、、感謝でしたm(_ _)m

それからは、聖歌隊にも参加できてないですが。
「また、聖歌隊に参加してね」。。。って、声をかけてくださる方も居られて、
うれしいです。
でも、父の病気は、進行性の病気なんで、だんだんと症状もあの頃よりも進んでいて、
24時間の痰の吸引があるし、今現在父をあずけることができるデイケアも、10時から3時くらいまでやし。
聖歌隊の練習やクリスマスの賛美に参加できないので、残念なことです。

でも、ほんとのことを言えば、
父も一緒にクリスマスの礼拝や賛美に参加できれば、一番いいんですが。。。
難しいですね。

みことば

2005年09月16日 | わたしの思い
聖書のみことばを、自分の解釈で考えたりすることってあると思う。
自分の都合のいいように、勝手に解釈したり、
神さまからの言葉を、人間の都合で利用してしまうことがあるように思う。
道徳の書にしてしまったり、
自己弁護に使ったり、
人を裁く道具にしたり。

聖書のみことばは、教会の礼拝で牧師さんの説教を通して、神さまが語ってくださるとき、
わたしたちを正しい理解へ導いてくださると思う。

ところで、ちっと、日記の更新が滞ってます。。。( ̄□ ̄;)
また、ぼちぼち、進めないと(o^^o)