『福運集団の社長奮闘記』

私が感動した事・驚いた事・日々感じた事をたくさん綴っていきます!

私の龍馬観 第9話

2010-08-09 23:37:40 | Weblog
剣を極めると、仏法の極意へ・・!





(剣の道を極め抜いたことで、仏法の極意である、他人を生かす心を体得していた龍馬。あらゆる書物の云わんとする所が、少し目を通すだけで、すべて見え、体得していったのです
。)



 こんばんわ。NHK放映の『龍馬伝』も、いよいよ佳境に入ってきていますね。今全国各地で、大人気の坂本龍馬です。その人間龍馬を今一歩深く、その心の奥を覗いてみたいと思います。



剣の達人であり、意外に、詩人であるとか、勉強で、歴史書とか洋書が懐に何時も入っていたとかいわれています様に、龍馬は、意外な一面を、数多く持っていたようです。



 江戸の千葉道場の北辰一刀流の免許皆伝を受けた龍馬ですが、そのお手並みは、群を抜いていたようです。剣の達人の域を超えた、無念夢想の域にまで達していたと言われている説もあったようです・・・。 



(剣道も、行きつく先は人間としていかに生きるかと云う人生の大命題を体得することです。この極意は、おのずと仏法の人間主義、平和主義に通じていくのです。)





「無量義は、一法より生ずる」仏法の教えの中に、世の中のあらゆる道を極めぬれば、必ずこの一法(仏法)に相通じていくのですよ。と釈尊は教えられているのです。



(華道も同じです。世の中のあらゆる物事は、一人の人間の幸せをいかに確立するのか、貢献していくのかで、出来上がっているのです。その極意はすべて仏法に相通じているのです。)




 まさにその教えの如く、龍馬は剣の道を極め抜き、そこから見えてきたものが何であったか・・。司馬遼太郎の「龍馬がゆく」の第2巻の中で、北辰一刀流の免許皆伝までとったのだから、少し気張って、道場でも起こして剣を教えたらどうかとの兄権平の説得に、龍馬がこのように言っているのです。「まだひとには教えられん。わしゃ、学問をしようかと思うちょるんでおじゃりますわい」と・・・。



(しかし、柔道もそうですが、注意をしなければならないのは、それぞれの道を極めつくすと云う事です。中途半端では、体得できません。その道に強いだけではだめで、そうしたものも含めて、その心を掴むことが大事です。その心をつかむとは、たとへば龍馬が、遊びの誘惑に負けそうになったとき、大きな地震が起こったのですが、その自然現象を見て、「天が、私の行動を注意をしてくれているのだ!」と云って行動を改める場面があるのですが、このようにすべての事象から学ぶこと等も、それに当たるのではないでしょうか。)





 この史実を通して、司馬遼太郎はこのように述べているのです。「この時代の『学問』と云うのは、今日の学問、つまり人文科学とか自然科学とかいったものと、言葉の内容がちがう。哲学と云う意味である。というより、倫理、宗教に近い。要するに儒教である。教養の中心は、人間の道の探求と、それをまもることにあるのだ。孔子を教祖とし、それに中国、日本の先哲が残した名言を学ぶ。学ぶだけでなく、踏み行う。」と、当時のほとんどの武士が学んでいたようです。その理由を「幕府、諸藩が封建体制維持のために、推し進めてきたのだ」と、述べているのです。



 龍馬は、学問を志したが、そうした、人間を一つの型にはめる学問を拒否して、自分で読み学ぶ「歴史書(資治通鑑)」を、剣の道を極めた心で、読んでいったのです。



(勝海舟も語っているように、自分自身に、自分が恥じない行動、悔いのない言動をして、世の中の役に立ち、一人の人間の為に行動できる生き方を、あらゆる修行の道は、教えているのです。極めつくすとこの1点を体得すると云うのです。)




 つまり、本来の仏法の悟りの極意は、剣の道の悟りの極意と同じで、自分自身を枠にはめるのではなく、身心共の自分自身の解放なのです。一人の人間を大事にする、その一人一人の命を最大限に守り輝かせて行くことを、自由奔放な龍馬は命で、体得していたのでしょう。



 その極意を体得すると、すべての教えの根本は、その意とする所に通じていくのです。
龍馬が、書も読めなくとも、あらゆる書の本意を掴み会得していたのは、仏法の極意「無量義は一法より生ずる」この1節を剣の道を通して証明をしていたのです。




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