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mitakeつれづれなる抄

普段いろいろ見聞き感じ考え、そして出かけた先で気になることを書き綴ったブログです。

岐南駅の冒進事故で思うこと

2015年06月04日 | 日記
 昨日の朝、名鉄名古屋本線岐南駅で上り線を走行する普通列車が、本来停まるはずの駅ホームを行き過ぎて、本線上に飛び出して止まったそうです。
 最初、CBCラジオの交通情報速報で、「岐南駅ポイント故障で、一宮駅~岐阜駅間で運転見合わせ」と伝えられ、朝ラッシュ時にえらいことや、と思いました。

 その日の夕方ニュースでは、駅に停まる列車の電源が故障し、通常のブレーキがきかず、最後は非常ブレーキで止めて、待避線と本線が合流するポイントを壊して止まった、と伝えていました。

 要するに車両故障なのですが、私が一番気になったのは、故障でブレーキがきかなかったことではなく、ホームを行き過ぎたポイントを壊した、というところ。
 新聞記事の通り、岐南駅は駅ホームのある線路は、本線から分かれた待避線に面してホームがあるので、駅に停まる列車は、待避線に入ります。

 ここからが疑問なのですが、一般的に、待避線に入るには、待避線の進入側のポイントを待避線側に開通させます。
同時に、出発側も待避線側に開通させるのが一般ですが、この新聞記事や、昨日のNHKラジオの伝え方では、待避線に入った列車がオーバーランして、出発側のポイントを壊したとあるので、出発側のポイントは本線側に開通していたと解せます。
ここがおかしい。
鉄道の基本のキとして、停車場進入の際はオーバーランを考慮して、出発側の進路を開けます。(開通はさせない)
でも改めて、岐南駅の信号設備を確認すると、上り線の待避線側にホームの手前に第二場内信号機があり、信号配置から、待避線到着時には、出発側のポイントは本線側に開通させていた可能性が高いようです。
 出発側のポイントが、待避線側に閉じていると、滑走余裕距離が無いので、ホーム手前の第二場内信号機は「YY」の警戒信号が現示されます。

 この文章書く前は、ポイントの開通方向に疑問を持っていましたが、こうして資料を基に考えると、ポイントの開通方向も納得です。

 であれば、何故電源故障があったのだろう。当該の車両形式は、特急一般車増結用の1850形2両組成です。元は7500系パノラマカーの電機部品を流用した、2両とも電動車の編成。かなりの電気容量で、特急走行時にブレーキをかけると、ほんのり焦げ臭い匂いがします。
 新聞記事の写真では、お客さんを降ろす様子が載っていますが、別の報道では故障が直ったと判断して、運転を継続したとのことです。
 これはちょっと具合が悪い。営業で運転を継続したのか、回送にして走行したのかは分かりませんが、本線走行には不適当ではないだろうか。

 今朝の中日新聞記事スキャナ。


 この岐南駅の上り線出発側のポイントは、本線側に固定することで、運転を再開。
 普通列車は、岐南駅を通過扱い。その他の通過列車も岐南駅で一旦停止の上走行する、という運転で運転再会しました。
 壊れたポイントを交換して、今朝から正常運転に復帰したとのことです。

*** 追記 ***
 6月5日の中日新聞朝刊では、電源故障したという列車、連結器が雨水でショートした、ということらしいです。電源故障はまぁ分かるものの、非常に由々しき事態であったこと。故障した列車がその後運行を再開したというのは、なんと営業で終着須ヶ口駅まで運行したとのこと!これはビックリ。


 さらにもう一つ、さらなる由々しきことは、この故障してオーバーランして岐南駅のポイントを壊した後、通過列車が3本あったこと。

 あれ、ポイントが壊れた後、通過列車が3本あったということは、出発信号機が「青」の「進行」現示が出ていたことになりますね。
 しかも本線側に転換していたものを、待避線側から無理に「割出」して、壊れて。
 そんな状態で本線側に鎖錠がかけられるのか?

 進路構成すべくポイントを転換した後は、鎖錠がかかって、その進路に対して進める信号を出します。

 この3本目の通過列車を退避した普通列車が、発車しようとしたら、信号が変わらなかった、という報告が名鉄指令にあり、それがNHKのニュース報道の文章になったわけでしょう。

 この記事にあげた4日の新聞記事で、お客さんがドアから階段を伝って降りる光景は、故障当該列車ではなく、信号が変わらないと報告したその後続の特急列車だったわけです。

 しかも記事の時間からして停止後2時間以上もたってようやく「救出」された訳ですね。お気の毒さまです。朝の通勤時、立っている方もいたと思います。

 ようやく、時系列での出来事が分かりました。
でもいろいろ疑問が残る「事件」です。何故、電源故障した列車はそのまま運行を継続したのか。
ポイントが壊れても鎖錠が保てるのか。

 今のところ運輸安全委員会の調査対象になっていませんが、調査対象とすべく、インシデント事案だと考えます。

同じ番地に多くのお宅

2015年02月25日 | 日記
 昨日、2月24日付中日新聞夕刊一面記事からです。岐阜市の鷺山で、同じ住所の230世帯が同じ番地で、郵便御配達や、救急車の到着が遅れるなのどの事態なそだそうです。

 記事のスキャナ。


 同じ記事が中日新聞の東京支社発行の東京新聞webにもありました。
えっ!230世帯、同じ住所 岐阜市鷺山1769の2 分譲優先のツケ?

 旧長良川の廃川敷を戦後、宅地開発した際に、住所表記には手を付けなかったとのこと。
 元々は無番地のところ、広大な一筆の番地だけが振られ、市営住宅の建設を急いだため、番地の整理は後回しにしたところ、新たな番地が出来ないまま今日に至ったとのこと。
 そのために、目的とするお宅へすぐに辿りつけず、郵便物の御配達は頻発し、救急車は探し回って、呼び出したお宅の前を何度も素通りした、ということだそうです。

 この情報に触れ、以前に名古屋市緑区で鳴海町字滝ノ水何番地(番地の数字は失念)があまりにも広大で、目的とするお宅にたどり着けないニュースを思い出しました。
 緑区鳴海町字滝ノ水の件は、元々が山林で山林の他は未利用地。都市化により住宅地として宅地開発されましたが、地番整理までは手が付けられず、そのため、同じ番地が広大でかなりのお宅が同じ番地で、やはり目的とするお宅にはたどり着けない、というニュースがありました。
 この緑区鳴海町字滝ノ水は現在は、住居表示施行区域となり、新しい住居表示が付与されていますが、土地の地番は旧来の」ままではないでしょうか。

 さて、岐阜市鷺山です。鷺山と言うとその名の山がありますが、この230世帯の場所はもうすこし南、明治時代の地形図では、出水時のみ水が流れることを伺わせる荒れ地記号、大正時代で単なる砂地記号で、このころにはもう水は流れない(流さない)締切工事が行われていたようです。
 昭和34年で現在のような街区が仕切られ宅地記号が出ています。
 つまり元々は自然河川で、当然ながら地籍でいう無番地でした。そこに地番を振ったはいいけど、一筆のみで、後世こうなることを予想できなかったのか、新しい番地は後送りで、住宅分譲だけが先行した、ということ。
 この230世帯の地域は、元岐阜市営バス長良線が通っているところ。バス停も、鷺山白鷺町とか、緑ヶ丘とか新しい名称がつけられています。ちなみに、鷺山玉川町停留所は、元は鷺山支所前停留所で、支所の廃止で現停留所名に改称したものです。
 白鷺町とか玉川町は、住所表示で用いられるものではありませんが、自治会の名前だそうで、同じ番地に230世帯もあると、同姓同名の方も出てくる恐れがあります。
 早期に地番整理、又は住居表示を行うべきものですね。

 例に出した、名古屋市緑区鳴海町滝ノ水何番地、郵便配達の方に場所を伺うと、一発で「ここです!」と示されたそうです。鷺山でも誤配はあるものの、ベテランの方は誰其宛で、どこかお分かりになられるのではないのかな。
 郵便配達人は、凄いです。恐るべし。

20年目の1.17

2015年01月17日 | 日記

Img_0133  今日は1月17日(もう夜ですが)。あの忌まわしい大地震から20年目の日。
つまり20年目の1.17です。
でも、19年目でも20年目でも19年と364日目でも被災地の気持ちはそう変わるものではないと思います。

20年が区切りになるのか。
マスコミ受けはしますけど、「やっと」20年なのか、「もう」20年なのかは立場によってそれぞれでしょう。

 毎年同じことを書きますけど、この日は前の晩から寝付けず、目を瞑ってうとうと。明け方になって外で何やら若者が騒ぐ声。
その直後ゆらゆら揺れ出して、だんだん揺れ幅が大きくなります。
怖くなり、憂慮されている南海トラフの海溝型大地震かと思いました。
揺れ方から、そんな伊勢湾沖の震源ではなさそうで、もっと遠くの大地震。
~東海地震か?~かも、と。東海地震なら、何とか助けてほしいと祈るばかり。

直ぐにNHKテレビを付けて、自宅で揺れ始めた同じ時刻の5時48分ごろと伝えています。
しかし震源は関西地方で、スタジオは大阪局に切り替え。

淡路島のどこかで震度6と発表。震源の位置が明石海峡付近とのこと。
神戸の状況が気になりました。

徐々に夜は明け、神戸がとんでもないことに。
空撮で阪神電車の御影留置線が崩れているのを目にしたときは、全身の血が冷えました。
あの近くで知人がいるんです。

そして深江の高速道路が横倒しの状況。

阪神電車の御影留置線の近くの石屋川車庫は、止まっている電車がでこぼこ。
恐らく下の柱が折れたのでしょう。
あ、石屋川車庫は車庫部分の全てが高架の構造です。

知人ですけど、建物は全壊で怪我されながらもなんとか助かりました。
おかげで、なんらかの私の知人関係では亡くなった方はいませんでした。
しかし、あそこの角の誰々さんは亡くなった、とかそんな話は聞きました。

こうして毎年ブログにしたためてでも、伝えていく。これが震災を知った者の使命かと思います。
昨日のブログ記事に関連するように。

その日から20年ですか。
一昨年、昨年と続き体調もあり、追悼のつどいには参加できません。