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mitakeつれづれなる抄

普段いろいろ見聞き感じ考え、そして出かけた先で気になることを書き綴ったブログです。

義満感嘆!世阿弥の能原点・今熊野の猿楽再現へ

2012年05月05日 | 京都

 京都新聞web版5月3日配信記事からです。京都市東山区に新熊野神社(いまくまのじんじゃ)があります。ここで猿楽(さるがく)の結崎座を率いる観阿弥・世阿弥親子が興行し、時の将軍義満がいたく感激したのが契機となって、以降の隆盛拡大となった能楽機縁の地であり、ここでその当時の猿楽を計画しているとのことです。
記事→http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20120504000016

 新熊野神社は丁度3年前、弊ブログでも記事にしました。
2009年5月2日投稿:[新熊野神社・能楽大成機縁の地]
http://blog.goo.ne.jp/mitake3067/d/20090502

 猿楽とは奈良時代に中国から渡来し、曲芸や物まねなどがあり、人を楽しませる要素が十二分に盛り込まれたもの。そして人を惹きつけるところから教えの伝達にも用いられ、それが宗教儀礼とも結び付いていました。今、役者さんのことを「俳優」と言いますが、この俳優の別読みである「わざおぎ」はその曲芸のやり手のことを差していました。

 その猿楽を率いる一座の一つが観阿弥・世阿弥親子の結崎座。1374年(南朝文中3年・北朝応安7年)にこの神社で猿楽を催し、それを見た足利義満が「これは愉快、面白い」と言ったかどうかは知りませんが、幕府として猿楽を育て守ることとなり、後に世阿弥の優れた作品から徐々に今の能の形になっていった、その素地を作った場所として、「能楽機縁の地」とされています。

 京都新聞記事では、足利義満が見、そして心に響いたという当時の猿楽はどんなものだったのか、実際に演じてみようという動きです。

 当時の猿楽は、今は完全に途絶えてしまっていますが、その流れを受け継ぐ芸は幾つかあります。その一つが狂言。各地に残る資料、そして大蔵流狂言師の茂山あきら師により復曲し、来年秋の上演を目指しているとのことです。

   ◇   ◇   ◇

 猿楽ではありませんが、猿楽と同じ様に演じられ、猿楽と発祥が同じの田楽(でんがく)がかつてはありました。こちらはかつて故野村耕介(没後五世万之丞を追贈)が田楽を復活し、一つのプログラムとして「大田楽」を各地で公演していまして、私も拝見したことがあります。

 復活する猿楽、ぜひ拝見したいです。猿楽のもつ曲趣を十二分に織り込み室町歌謡組曲として復活させた、こちらも故人となられた茂山千之丞師もおられ、これも拝見させていただきました。

 この両師、今も御存命でしたら復活にいい力添えとなったことでしょう。そして両師の手掛けた復曲もさらに進んだはずですけど、返す返すも残念です。

 今から600年以上前の社会の雰囲気は少しづつではありますが伝わってきます。これに復活する猿楽を拝見できれば、これがどう能に変化してきたのか、その辺りも自分に問うてみたいです。当時の猿楽、分る事は今の様な、どこかの府知事が「気がおかしい!」などと言わせるほどスローではなく、もっとテンポ良くポンポン進んでいたそうです。

 ちなみに狂言の方が能よりも早くその姿を現していたそうです。散楽からセリフ劇の部分が独立して演じられる様になり、それが狂言の原形となって、当時の芸の影響を受けながらも能の進化と共に歩んでおります。


何も残っていない・元々の本能寺跡

2012年04月19日 | 京都

 「敵は本能寺にあり」。小学校の歴史にの時間で習った天正10年6月2日(西暦1582年6月21日)、明智光秀が主君織田信長を討ったという本能寺の変。その本能寺は今は京都市役所の南、中京区寺町通御池下ル下本能寺前町にあり、やはり歴史で習ったその現場を訪ねるのか、修学旅行の生徒さんが多く訪れています。

 しかし今ある位置の本能寺は、「本能寺の変」が起こった場所ではありません。秀吉の京都大改造で現在位置に強制移転させられたものです。そこで予てから訪問したかった元・本能寺のあった場所へ今年冬、仁丹看板を探しがてら行ってみました。

 しかし事前の調査の通り、痕跡を示す物は何もありませんでした。場所はここ。

大きな地図で見る

 少し見辛いですけど、南北の通りで「小川通」というのがあります。この通りは四条通にはつながっておらず、一筋北の錦通から北へ伸びています。この通り沿いに南から「元本能寺南町」「元本能寺町」「本能寺町」という三つの町が、昔ここが本能寺だったことを今に伝えています。

 蛸薬師通小川下ルにある、石碑。もうこれが唯一ですね。

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 角っこにあり、後ろの建物は老人ホームです。元本能小学校。

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 実際には「元本能寺南町」「元本能寺町」を中心としてもう少し東西に広い寺域だったそうで、この範囲のどこかに伽藍があり、どこかに信長が最後を迎えた場所があるんですね。

 そして本能寺は火を放たれ、その多くは灰となってしまいました。上の老人ホーム建設の際、またマンション建設でも掘るといろんな物が出てくるのだそうです。最近は埋蔵文化財の保護に結構やかましいですからね。昔はコッソリと、なんてこともありました。

 今は変哲もない、京の街並み。小川通蛸薬師上ル元本能寺町。

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 こんな公園があります。本能公園。元・本能寺があったからではなく、この辺りの元学区が「本能学区」だからでしょう。

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 さて、肝心の仁丹看板。あ、仁丹看板とは、琺瑯性の仁丹広告入り町名表示板のことです。しかしこの本能寺の名がある三カ町では見つけられませんでした。ボツボツと観光客の方がおられ、目立つから外してあるのでしょうか。ちなみにここは中京区ですが、仁丹看板では設置当時の下京区とあるはずです。

 そのかわり、ライオンズクラブの町名表示板。元本能寺南町。

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 元本能寺町。

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 本能寺町。

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 ところで、一番上の地図をご覧下さい。小川通は四条通にはつながっておらず、一筋北の錦通から北へ伸びていて、東の西洞院通と西の油小路通とで長方形になっています。

 この小川通は後から通されたもので、これがまさしく秀吉(豊臣秀吉)の京の町大改造によるもので、寺という寺を鴨川沿いに集中移転させました。本能寺もこの時に現在地に移転しています。1587年(天正15年)のこと。そして本能寺があった場所に新たに通りを通して、経済活動の強化を計ったわけです。

 そして寺が集中した場所が寺町と呼ばれるようになりました。鴨川沿いに集中させたのは、東からの防衛ラインだという説があります。信長も秀吉も私と同じ尾張出身ですけど、お寺さえも軍事に組み入れるなど、スゴイ人物だったのですね。

 旧寺域に新たに通した小川通ですけど、錦通より南へ延ばせなかったのは、その南には大きな力を誇る、祇園祭での山と鉾を出す町があり、その町衆の結束力の強さは、たとえ秀吉と言えども強引に町中を通りを通す事ができませんでした。四条通の傘鉾町、綾小路通の芦刈山町、仏光寺通の木賊山町。そして仏光寺通から南へ新たな通りが通されました。東中筋通です。

画像撮影:2012年2月5日

***2012年4月20日追補
 年号と記事文章を少々追加


近衛の桜・枝垂桜・京都御苑2012年春

2012年04月08日 | 京都

 今朝、もう一つのブログにも書きましたけど、先日、京都御苑へ少しだけ桜を見てきました。既に身頃になっているとラジオで話しており、左京区の琵琶湖疏水分線沿いの散策路、通称「哲学の道」へ行く前に、地下鉄経由で烏丸今出川乗換えの際に、寄ってみました。京都御苑で咲いている桜を観るのは、今回が初めてです。

 地下鉄今出川駅を降りるとなにやら人が多い。駅構内の張り紙に「御所参観はこちら」とあり、京都御所の一般参観期間中でした。

 少し仁丹町名看板を探して廻り、京都御苑は中立売御門から入りました。入ったところにこんなモクレンが。

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 正直言うとアテも無く、ただ御所は桜の名所だというそんな程度の知識で、この後のバスに乗る為に北へ向いまして、禁裏の清所門近くにこんな桜が咲き始めていました。

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 どんな品種でしょうか。御所はソメイヨシノは少ないと聞いていました。

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 さらに北へブラブラ。烏丸今出川に近い一角に、人が多くいる枝垂桜が見えました。これがどうやら有名な「近衛の桜」であったらしいです。

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 枝垂桜の花。

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 地面近くの幹が横に伸びていますね。

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 禁裏、朔平門を背景に。

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 池に垂れる、枝垂桜。ここが近衛邸の庭だったそうです。

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 公家の近衛家は五摂家の一つだそうで、その跡地には桜と上のような庭が残されているのみだったそうです。

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 解説板。

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 というわけで、ここが話に聞いていた近衛の桜だったと知り、大きな発見でした。全然下調べしていなかったもので。

 そして御所(京都御苑)へ行くと、必ず気になる「御所の細道」。砂利敷きに自転車が通る帯だけ砂利が少ない(少なくなった)、まるで軌道状の空間。こういうの見るとムラムラ来るのは、私は相当な「鉄!」なのですね。

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 なお、御所の一般参観が行われていましたけど、私は参観しませんでした。後の用で時間の都合もありましたけど、禁裏の中は正直あまり関心が無いんです。

 そして今出川御門から出たら、丁度西からバスが来る!同志社前バス停からバスに乗りました。

画像撮影(つまり訪問日):2012年4月6日


本願寺水道・近代化遺産として保存の動き

2012年04月06日 | 京都

 讀賣online関西発4月5日配信記事からです。東本願寺さんの防火専用の「本願寺水道」を、歴史的な近代化遺産として保存を求める動きがあるのだそうです。
→記事:http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120405-OYO1T00586.htm

 本願寺水道って、何だ?ですね。浄土真宗真宗大谷派の東本願寺は、創建以来何度か火災に遭っています。江戸時代に現在の地に移ってからも四回燃えています(四回目は元治岸元年の禁門の変によるもの)。そこで明治に入り世紀のプロジェクトとして建設された琵琶湖疏水の水を利用する、防火用水システム。蹴上のインクライン上から貯水池に水を引き、そこから地下に埋設された鋳鉄管を東本願寺まで敷設して、境内ではさらに管を東本願寺の本堂などの建物にも設置し、管には複数の噴出孔を開け、いざという時には建物全体を水で覆って、大きな火災には至らせないものです。蹴上との標高差で、位置エネルギーで屋根よりも高く水が出るそうです。

 なんとも雄大な導水設備ですね。当時の東本願寺への信仰する力は大きなものだったでしょう。何しろ大遠忌では、前の烏丸通を参拝する人で埋め尽くすために、車と電車の通りを一本東の不明門通(あけずどおり)に曲げさせたくらいですね。

 そんな東本願寺だからこそ、蹴上から延長4.6kmもの送水管を埋設できたわけで、当時最新の技術で造られた送水管や境内の敷地内にある噴出孔なのですが、2008年に水漏れが見つかり、現在は使われていないとのことです。

 このまま使われないのも惜しく、また本願寺水道は東本願寺と東にある渉成園(枳殻邸)の池にも使われており、この両地にある池は、京都盆地の水系ではなく、琵琶湖の水系で琵琶湖に住む生態系がここでも営まれているそうです。

 そのためにも本願寺水道を保存したいところですね。しかし費用が5~10億円ほどかかる上、公道下に設置されている送水管でもあり、行政(京都市)との連携も欠かせないとの事。

 私はこの本願寺水道は、琵琶湖疏水を学ぶ上で知りました。東本願寺だけでなく琵琶湖疏水を水源にしているところは幾つかあり、平安神宮も琵琶湖疏水の水を使用しています。利水の系統図では一次利用からさらにその下へ数次に亘って利用者がいるなど、意外なところで琵琶湖の水が現れたりします。尤も上水道の水がそもそもが琵琶湖からですけどね。

 祇園の粋なところを伝って、さらに鴨川を渡っています。鴨川は五条大橋の下を通っているそうで、ここでは唯一、本願寺水道を目にする事が出来る場所です。

 遠いところから水を引く技術。すごいですね。フランツ・リストの曲に「エステ荘の噴水」があります。実際にその建物と噴水がイタリアにありますけど、ルネッサンス時代の建物ゆえ、はるばる遠くからの導水設備も金属の管はなく、石管であったそうで、これも権力の象徴であると伺いました。


京都観光にタクシー利用は有効かもしれない

2012年03月29日 | 京都

 10日ほど前に、今年で10年の京都東山花灯路で、灯りで演出された夜の東山情緒を楽しんできた事を書きました。⇒その記事。記事の終りに、「今年の花灯路見学も終えて無事帰宅・・・、というところでとんだアクシデント!」と書きまして、その起ったアクシデントです。

 いや・・・、別にアクシデントというほどでもないですが、帰りの祇園停留所でアテにしていたバスが、時間になっても来ない!。そんなのどうろの渋滞もあるから当たり前!、という意見もありますね。一寸続けます。

 目指したバスは、「京都よるバス」の「ぎおんよるバス」。京都駅⇒東山通⇒祇園⇒四条烏丸⇒京都駅の循環バス。市バスの車両を用いていますが、京都まちづくり交通研究所という団体が運営しているバス。祇園停留所を21時00分のバスを目指したところ、10分前の先行車が約2分遅れて発車して行くのを、祇園さん(八坂神社)の西門で見かけました。目指すバスも同じか、せいぜい5分程度の遅延だろうと思うものの、待ってどくらせぞバスは来ない。家へ帰る京都駅の電車は、21時31分発。そろそろタイムリミット。

 普段ならこれに乗り遅れても新幹線という手段が有りますけど、今回は青春18きっぷ使用なので新幹線に乗れない。そこで頭にひらめいたのは、タクシー利用です。タクシー運賃と別払いで新幹線を乗った場合の費用を比べ、多分タクシーの方が安いと判断、ぎおんよるバスは諦め、タクシーで京都駅へ行く事としました。

 どうせ乗るならMKタクシーにしようとも思いますけど、そう構えたら、さっきまでアレほど見かけたMKが来ない。そこで小型で「12%OFF」と行灯を乗せたタクシーが来て、それに乗りました。しかし祇園界隈からタクシーに乗るなんて、この先多分ないでしょうね・・・。

 道路はすいていて、、いや空いているだろうと判断された道を行ったお陰で、京都駅のタクシー降車場までなんと10分で行ってしまいました。そして運賃は、1,040円。案外安い!因みにルートは、四条~川端~五条~河五の旧電車道をショートカット~河原町~七条~高倉~塩小路。

 帰宅後、ネットで色々調べましたら、京都のタクシー運賃はいろいろあって、京都市はそもそもが小型車が多く、その小型でも会社によって認可運賃に幅があるらしい。この日に私が乗ったタクシーは安い方だったみたいで、渋滞が無くストレートに祇園から京都駅まで行きましたので、純粋に距離分の運賃だったわけです。

 そこで思いました。京都観光で巡る際、タクシー利用もかなり有効でしょう。有効でしょうって実際に乗っている方がいるのですが、東山方面の市バス大混雑振りを見ていると、グループでしたらタクシー利用はもっと増えてもいいのではないかな。一人あたりの費用は少し増えますが、中でお話出来ますし、運転士によっては沿道の案内してくれるかもしれません。元々空車タクシーが走り回っていますので、さほど渋滞の増にはならないと思います。

 

 ところで来なかった「ぎおんよるバス」。その日の祇園21時00分発は本当に渋滞にはまっていたかもしれませんが、過去にこの時間発の便に乗っており、その際は定刻発車でした。それから後の別の日、始発の京都駅を発車する様子を見ようと乗り場近くの写真を撮れる位置で待ち構えていたら、バスが来ない!別の日も京都駅で待ってても来ない!さらに別の日に乗り場付近を歩いていたら、ぎおんよるバスが到着そして発車。7分遅れているのか3分早発なのか変な時間でした。

 本来の市バス路線ではないという理由ではないと思いますが、始発停留所でこの不安定ぶりはなんなのだろう。正直信頼がおけないバスという認識になってしまいました。