昨日書いた投書の続きです。
この記事を読んだとき少し違いますが、小柳陽太朗氏の次の言葉をおもいだしました。
http://blog.goo.ne.jp/misky730/e/8d36a1237dc11ff16eb220714fdde08f
「母親が注意できなかったのか」
平成17年11月18日産経新聞大阪版夕刊
運転席の「パパ」を呼び続けてドアをたたいた長男(三つ)のそばには、母親(妻)が同伴していた。「風」には、妻の対応はどうだったのかという疑問を投げかける意見が目立った。
東武鉄道広報センターは「運転士の行動が問題あり、(妻の行動は)詳しく把握していない」。同社の労組、東武交通労組も「2歳の長女をあやしていた、としか聞いていない」との解答だ。
妻の振る舞いは不明な部分が多いものの、小学生の子供が3人もいるという女性は、こんな感想を寄せている。《目の前にいる運転士さんは、子供のお父さんではなく、自分の主人でもない。何百人の乗客の命を預かる立場の「公共の人間」であるという自覚が足りなかった》 男児(四つ)がいるという女性も《運転士が父親としてやむを得ない行為という意見には反対。母親が注意すればすむ簡単なことだったと思う》。主婦(28)も《三歳ぐらいの子が仕事中の父親を見つけて落ち着けるはずがない。せめて(パパの)姿が見えない車両に乗るべきだった》との意見だ。
このように、運転士の家庭と同世代の妻として、また、同じ年代の子を育てる母親として、積極的に意見を寄せる「ママ」が目立ったのも、今回のテーマの特徴といえる。わが家に置き換え、子育ての問題として考える姿勢が垣間見える。
大阪府内の女性(42)は《子供は三歳。物事の善悪や道徳、公私の区別などをどんどん親が教えていかなければいけない時期》。娘が三人いるという女性は《公共の場でのルールを子供に教えていくのは親の務め。父親が仕事をしていた以上、母親に責任があったのではないでしょうか》と訴える。
ただ、こうした意見であっても運転士の処分については「厳しすぎる」と言う声が多かったのも確か。大阪府内の会社員(三四)は、今回の問題に限らず、車内でのマナーを守らない人が増えたことを嘆きつつ、こう締めくくっていた。 《子供が走り回っても全く注意しない。靴のまま座席の上に立っても知らん顔。そうした親が増えていることと今回の問題は無関係ではない。車内で平気で携帯電話を使う人や化粧する女性なども一緒。今回の問題を人ごととして笑えない人は多いはずです》
この記事を読んだとき少し違いますが、小柳陽太朗氏の次の言葉をおもいだしました。
教育の場とは、実はこの自由ならざる、万人が守るべき規準を子供達の心に植え込み、これを育てるところにある。生徒がどのような思想を身につけようとそれは自由だろうしかし思想の「身につけ方」、それは先ほどの論語の言葉によれば忠恕(まごころとおもいやり)をもってするということだが、この、思想に対するとりくみ方は、人間が人間であって禽獣でない以上、万人が守るべき鉄則ではないか。
…
教育とは、一般に言われる意味での「自由」というものをむしろ拒否するところに成立する。それは考えてみれば当然な事実だが、この事に改めて心を向けなければ、もう一歩も動かないところに日本の教育は来ているのである。
http://blog.goo.ne.jp/misky730/e/8d36a1237dc11ff16eb220714fdde08f