こんにちは江崎遊子です。

ちょっと言ってもいいですか。

溝口健二「祇園囃子」

2015年02月15日 | お山の映画館

 わたしのアンテナに引っ掛かって来ないけど、旦那が録画していたので観てみた。
 京都の花街の芸者である木暮実千代と田舎からでて来て、まだ10代のような幼さが漂う若尾文子が主人公である。
 木暮実千代は色香漂う芸者である。
 場所によって、芸者さんのランクがあると聞いたことがあるけれど、
 日本舞踊や三味線もしっかり仕込まれる、本来の芸者や舞妓さんである。
 原作が川口松太郎と書いてあった。
 白黒だけれど、着物が素晴らしい。

 花街の真実がどんなものか、よく分からないけれど、
 身体を売らない、というプライドがある事に依って、物語が出来ている。
 当然身体売るでしょ、と思っている男社会の考え方に抵抗する二人は
 浪速千恵子扮する水屋の女将の怒りに触れ、おふれが出て、どこからもお座敷がかからなくなる。
 お金の世界は、汚いよね。でもそれも我等の一部である事は確かだ。
 
 結局、木暮実千代にご執心の、役所の高官に賄賂として抱かれる事で、自分たちの立場を元に戻すのである。
 映像は、さすが、と思わせるものがある。
 溝口健二と意識して映画を観なかった。しかし、つい引き込まれて観てしまった。
 商売に失敗して落ちぶれた、若尾文子の父親役の進藤栄太郎が、みすぼらしくていい感じが出ていた。
 進藤栄太郎は意地悪な悪役の印象と、中村錦之助主演の「一心太助」ものの御家老である。
 独特の喋り方が濃い。
 
 溝口健二の映画は「雨月物語」とこれで2本目である。
 昔のように、研究心旺盛な映画の見方が出来なくなっている。
 今の自分にかなり引き寄せてみている感あり。

 「雨月物語」を観ると、肯定的にこういう時代があった、とは思い難い。それほど我等は変わったのだ。
 アニミズムが我等の身体に浸透していただろうし、大地と共に生きている感覚があった時代である。
 今よりも、人々は野の花や、鳥や、生き物と対話が出来ていた時代である。
 我等現代人は、文明というまやかしの世界にどっぷり浸かってしまって、もう元には戻れない。
 何がいいのか分からないけど、精神の病が増えているのは確かである。

 「祇園囃子」に出て来る京都の風景は、昭和27年の日本である。
 うーん。わたし、まだ4歳だった。日常的に下駄を履いていた。運動靴なんて珍しかったんだから。
 戦後7年だから、日本が貧乏だった時代だ。映像が残す日本文化に心が揺れたかも。
 
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