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超心理マニアのためのブログ

マット・イシカワによる超能力研究の文献ガイド

間奏曲(10)テレパシー番組に寄せて

2006-12-30 | 間奏曲
読書ガイドが「煩悩の数」に達したところで、年末年始の別話題に寄り道。

一昨日のナショ・ジオ・チャンネル「特集:サイエンス・ワールド」の
テレパシー番組はなかなかよかった。最先端の科学トピックのひとつに
<テレパシー>がとり上げられているという特集の構成であり、番組の
内容も学術的なものだった。

話題は大きく4つ。
(1)一卵性双生児の間のテレパシー体験の報告および実験。
(2)後期スターゲートの中核研究者メイによる遠隔視実験。
   被験者はマクモニーグル。スターゲート時代の記録映像も。
(3)エジンバラ大学スティーヴンスによるガンツフェルト実験。
(4)ワシントン大学代替医療チームによる脳波のテレパシー呼応実験。

全体的に肯定的な(テレパシーが起きたと見える)実験結果が次々と
示されていた。残念なところは、実験設定がややラフで、番組の最後で
は、これらの実験だけでは確実なことは言えないと結んでいることだ。

最近の超心理実験の方向は、厳密な実験を数多く行なって、しっかり
統計で分析するものである。そうした実験では番組にまとめにくいので
やめたのだろうか。それとも、確実なことが言える状況にしてしまうと、
最先端の科学トピックを描く一般向けの特集番組として不適当なので、
あえて厳密にしなかったのだろうか。少し疑問が残った。

間奏曲(9)日本超心理学会大会報告

2006-12-11 | 間奏曲
日本超心理学会大会に参加した。

「テレビのチカラ」の直江ディレクターのお話、たいへん興味深かった。
この番組は、行方不明者の捜索が狙いであり、超能力のショーでは
ないので、超能力者とされる出演者の透視には「やらせ」はまったく
ないのだそうだ。むしろ結構当たってしまうので、「やらせ」に見えや
しないかと、そちらのほうを心配するくらいなのだそうだ。ただ、いろいろ
当たるわりには、殺された被害者の遺体のありかを言い当てた事例が
まだなく、まだ完全にその能力を信じるには至っていないという。

もし、遺体のありかの透視が、他の透視に比べて難しいとしたら、それは
なぜか。どんな説明仮説が考えられるか。・・・さまざま議論が交わされた。

12月25日に「デレビのチカラ」スペシャルが放映されるそうです。

間奏曲(8)ゴーストハンティング

2006-12-07 | 間奏曲
広島での日本超心理学会大会では、ゴーストハンティングの方法
がシンポジウムのテーマになっている。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jspp2/japanese/event/

アメリカではこうしたゴーストバスターが職業になっているようだ。
家に幽霊が出ると、日本ではお祓いを御願いするが、アメリカでは
近代的な文明機器を備えたゴーストバスターチームがやってくる。
闇を封印するのではなく、明るく照らすことによって消し去るのだ。
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/7-5.htm

77番目で紹介した、UFOによる誘拐体験もアメリカなど英語圏
で頻出しているそうだ。日本ではほとんど報告が無い。こうした
ところを手がかりに文化比較を論じるのもおもしろい。

※というわけで、出張のため本ブログは3日間お休みです。

間奏曲(7)日本超心理学会大会やるよ

2006-12-06 | 間奏曲
ここで、読書ガイドは、またちょっと中断。

この週末9日に、広島で日本超心理学会大会が開催されます。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jspp2/japanese/event/

研究発表5件、テレビ朝日の方の講演などあります。
私も参加します。近場の方、ぜひ会場で会いましょう。
気軽に声をかけてください。

そうそう、例の間奏曲で長々報告していた番組、今夜0時から
BSフジで放送されるようです。せっかくですから、ご覧ください。
「世界超能力グランプリ2006ファイナル!」

間奏曲(6)信じるより考えよう

2006-10-26 | 間奏曲
(前日からの話題)

「イシカワはメディアが嫌いなのだ」という囁きが聞こえてきた。
そんな趣旨のことは言ってないだろうに。

そういうレッテル貼りが問題なのだ。超能力のあるなし論争が
ウケルのも、視聴者がレッテル貼りを指向しているからである。
レッテル貼りは、なるべく考えないで済まそうという態度の
あらわれである。

人間や社会や物事の実態は複雑なのである。複雑なまま把握
するには「考える力」が必要である。超常現象の信奉者には、
とかく信念が先行する者が多い。超心理学は科学的手法で、
考える学問であり、超常現象信奉とは一線を画しているのだ。

メディアも信じることを助長するのでなく、考えることを促進する
ものであって欲しい。

(この話題おわり)

間奏曲(5)超能力あるなし論争をめぐって

2006-10-25 | 間奏曲
(前日からの話題)

どうやら肯定派の役者が揃ったので、否定派をやって欲しいらしい。
あの「プラズマ」先生はもう引退されたのだろうか。

それにしても、超能力はホントかウソか的な番組ばかりよく作っている
ものだ。視聴者にとってそれがわかりやすく、制作者も作りやすいと、
思っているのだろう。

しかし、科学的な論争は文献32番、33番にすでに紹介したように、
膨大な実績がある。善良な番組制作であれば、その内容をいかに
視聴者に伝えられるかなどと、まずは考えるべきであろう。そういう
企画の相談ならば喜んで協力するのに。。

ところで、肯定派と否定派の論争では不公平に思えないだろうか。
超能力否定派は、「科学的にありえない」とか、「インチキの可能性
がある」などと、一見有無を言わせぬ論理を使える。科学分野の慣習
に従うと、奇跡的な現象になればなるほどその主張には確実な証拠
が必要であり、肯定派には過剰な実証責任がかかってくるのである。

つまり、否定派は左うちわで気軽に行なえるが、肯定派はときには
人生をかけるほどの、大きな労力を必要とするのである。超心理学者
たち(そしてその被験者たち)の真摯な努力をまのあたりにすると、
なおさら私は、そのような安易な論争にくみすることができない。

(この話題まだ続く)

間奏曲(4)メディア人の職業倫理

2006-10-24 | 間奏曲
(前日からの話題)

目白と新大久保の間の「高田馬場」さんの合いの手が入ったところで
続けよう。資本主義の社会では、「われわれ」が「テレビというメディア」
の広告で宣伝されているものを買っているから、という指摘である。

確かにその通りなのだが、一方で、公共の電波をなかば独占的に使用
しているメディアにとっては、放送法を始めとした社会的規制がかかって
いる。その基本的精神は、大衆に対する影響力が強いので片寄った
使われ方を防ぐこと、そして願わくば政府などの他の権力に対し批判的
役割を担う民主主義の要となってもらうことである。

メディアに従事する者はその社会的影響力をつねに意識し、自らの生産物
の社会的な妥当性を反省する義務があるのではないか、それがメディア人
の職業倫理なのではないかと思うのである。法律に触れない範囲なら広告
収入をまず第一に考えるというのではまずいのではないか、それはメディア
の自殺行為なのではないか(つまりメディアに信頼が寄せられなくなり利用
者がいなくなること)。

私のところに電話をかけてきた番組の制作者が、再度出演を依頼してきた。
私の言うことが理解できないようである。このブログも見てないにちがいない。

(この話題まだ続く)

間奏曲(3)超能力と奇術のはざまで

2006-10-23 | 間奏曲
(前日からの話題)

超能力エンターテイメント番組を超能力者の立場から考えてみよう。
(あくまでも真の超能力者がいると仮定してのことだが。。)

超心理学の文献によると、証拠として評価できる超能力現象は滅多
に起きないとある。真の超能力者であっても、ときどきしかその力を
発揮できないとみられる。ということは、真の超能力者は、超能力
エンターテイメント番組に出演する気になるだろうか。現象が出せな
ければ「どうせニセモノだったのだ」とバカにされるのがオチである。
いくらなんでもそんな危険なことはしないだろう。

すると合理的に考えて、番組に出演するのは何らかのエンターテイナー
だけになるはずである。本当のニセモノか、真の超能力者であっても
奇術の心得があったり、霊魂などのトークにたけていたりして、気まずい
状況もうまく切り抜けられるエンターテイナーたちである。

推測するに、苦労して超能力を発揮するより、奇術を行なったほうが
ラクなのだ。そして重要なことは、番組制作者が暗にそれを望んでいる
のである。絵になる瞬間が収録できなければ番組にならないのだから、
制作費に見合う最低限のリスク管理として、奇術の可能性を残した緩い
管理をするのである。結果として視聴者は、超能力と名づけられた奇術
を見せられ、「これは本当に超能力でしょうか、それとも奇術でしょうか。
判断するのはあなたです」と、とても判断できない映像を見せられるのだ。

そう考えると、森達也さんの「職業欄はエスパー」(4番目の紹介本参照)
が優れた映像ドキュメンタリーであることに改めて気づかされる。
「超能力者」と呼ばれる人々の視点から社会を描き、彼らの人間性という
判断の手がかりを視聴者に提供してくれる。

私のところに電話をかけてくる番組の制作者は、超能力や超能力者に
ついて調べているのだろうか。森さんの業績を知っているのだろうか。

それともこうした願いは、制作の忙しい現場には無理な要求なのだろうか。
だとしたら、なぜこうなってしまったのだろうか。テレビというメディアを
われわれは今後どのように位置づけていくべきなのだろうか。。。

(この話題まだ続く)

間奏曲(2)超能力はエンターテイメントだった

2006-10-22 | 間奏曲
(前日から続く)

「企画書」がきた。なんとたったの1ページ。
よく見たら「番組概要書」だった。さすがに本物は出せないのかなー。

内容は、「超能力エンターテイメントSHOW」とか、「様々な超能力が
飛び交いスタジオはどうなってしまうのか」などという文字が踊っている。

ああ、超能力はエンターテイメントだったんだ。。。(溜息)
超能力を「研究対象」とする、これまで紹介してきた50冊の著者の大多数
との意識のギャップに愕然とする。

エンターテイメント番組に科学者が何をコメントできるのだろう。そもそも
管理していない状況で「超能力」が発揮されても、奇術と区別がつかない。
「今のは本当に超能力でしょうかねぇ」と聞かれれば、「奇術でもできそう
ですね」と言うしかない。本音は「学問的には意味のないことをやっている」
と叫びたいところだ。

考えてみれば、はやりの「血液型心理判定テスト」のたぐいの番組に心理学
者がきてコメントしたのは見たことがない。「こんなテストは学問的に意味が
ない」と言うに決まっているからだ(そうでなければニセ心理学者だ)。
ということは、こんな番組に出演依頼するのは、私のことをニセ科学者と
思っているのか、何も考えていないかのどちらかだ。

・・・

私がなんて回答したかって? 決まっているじゃないか。

(この話題まだ続く)

間奏曲(1)テレビ局からまた電話がきた

2006-10-21 | 間奏曲
ブックガイドが50冊の節目にきたところで、少々休憩しよう。

(最近の経験から)
一昨日、あるテレビ局の制作プロダクションから電話があった。
どうやら電話を再三かけまくっていたらしい。

メールなら確実なのにと言ったら、前日に私がメールを受け取った
当の人であるとわかった。すでに返事を出してあるのに、それを見ず
に電話をかけてきたのである。

なんかテレビに出演して欲しいらしい。
「それで、どんな番組なのですか?」と聞くと
「○○が○○で、スタジオに○○を集めて・・・×××」
「えっ、それで私にどんな役割を期待しているのですか?」と問うと
なんと、別の番組の内容をとうとうと説明していたことが判明。

「いや、すみません。いろいろ同時に担当しているもので。。」
そんな状態では、ドタバタ番組しか作れないなぁ、と苦笑する私。

正しいほうの番組は「超能力者をたくさん集めてスタジオで超能力を
発揮してもらう」のだそうだ。その超能力にコメントして欲しいという。

「それで、超能力は滅多に起きないらしいので、発揮できなかったら
どうするのですか?」
「発揮できるように超能力者の方々には、体調を整えてもらってます。」
「・・・」(それでも出なかったときのことを聞いているのー)

「批判的立場からのコメンテーターでもいいですよ。」
「・・・」(なんと軽いノリだ!)

「超能力者には、○○さんと、○○さんを呼んでいます。」
「とにかく番組の企画書をメールしてください。それで判断しますから。」

(続く)