いくつか読んだだけの短編集はあるのだが読むものもなくなって、さてと思ったら前に買ったフーコーを思い出し「言葉と物」の出だしはベラスケスの絵画から始まるからちょっと読んでみようと思った。その絵はネットで出てくるので抽象的な話をされるよりはわかりやすいかと思ったら、これはこれでそんなことどうでもいいじゃないと思い哲学とは普通の人ならどうでもいいと思うことを回りくどく書くだけなんだなと思った。「イメージは枠から外へ出なければならない」という引用がある。その一言でいいじゃないと。なんか不思議な絵だと一言で言えるのにこれだけの文章を使って、しかもその1章読んで何言いたいのかさっぱりわからない。ジョン・アッシュベリの「凸面鏡の自画像」でパルミジャニーノの描き方ではと始まっても絵画でパルミジャニーノというのは画家なんだと想像つくが、その画家も作品も知らないで勝手に詩人が語り出すというのに似ている。アッシュベリをウィレム・デ・クーニングと比較して論ずる人もいるらしく、なるほどアッシュベリを文章のアクション・ペインティングとするとなんかイメージがつくような気がする。詩の場合はペイント垂れ流しでもいい。哲学はいつも数ページでくじけていたのでわからないけれど、たぶん結論を必要とするのだろう。そうでなければどうでもいい言葉をつなぎ合わせて長い文章にする意味がない。レンブラントの自画像でバックにサークルが二つある絵。あれは未完なのだろうかと昔から思っていたが、絵の素晴らしさからいえば未完であろうがそんなことはどうでもいい。デュシャンの大ガラスのように故意にやめてしまったりとか。哲学のイメージは交響曲で4楽章のフィナーレまで聴かないと読んだと言えない。いつも完結したものには興味がない。全部聴くと6時間かかるモートン・フェルドマンの弦楽四重奏をいきなり2枚目から聴いて10分でやめるとか普通にする。チャーリー・パーカーの演奏でパーカーのソロだけ集めるとかジャズではよくある。さすがに映画は時間つぶしのアクション映画などは除いて、途中だけ観てやめるとかはしない。未完といえばカフカだ。長編はブロートが勝手に並べただけなのだから、章を適当に選んで読んでもかまわない。逆にカフカ自身が出版した「変身」など面白くない。もっと有名なのがシューベルトの「未完成」か。4楽章までできていたならさぞかし長く、つまらない曲になっただろう。ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」のように最後を最初につなげるというのもあるが、そこまでいくと。