昨日1年ぶりに書道の師匠「F先生」にお目にかかりました。コロナですっかり書道塾の仲間が敬遠して、この2年間ほぼお休みが続いていたのです。
その間、ワタシが3年ほど前に書いた「百福図」の表装をお願いしていました。書作品は、仕上げに入れる「落款」、つまり書いた日や場所などに自分の名前・雅号などの署名を入れ、1~5か所に印を捺すことで完成します。落款なしのものは、特別な事情が無い限り、ただの練習紙、書きつけ、反古、紙屑同然で何の価値もありません。
加えて落款を入れた後、保存状態が悪ければ破れたりしわになったりいたします。そこで最低仮表装、出来れば本表装するのが理想なのです。
百福図や百寿図は、名前の通り「福・寿」の文字を百種類集めて一枚の書道紙に書き連ねるという形式の、変わった書作品であります。ワタシがこれを見かけたのが、件の書道教室で筆頭格の仲間が、どこからか入手してきた百寿図でした。ほぼ同じころ昔からの友人宅に招かれて昼食をご馳走になった時、その座敷に百福図が床の間に掛かっているのを見つけました。友人のお父さんの戦争時の部下で書道家、復員後に貰ったのだそうです。
更に、ヤフオクで河野斗南さんの百寿図を見つけました。もうこれは偶然では無く、書の神様が「あんたやりなはれ」と言っている、やるしかない、と考えて始めたのです。その百寿図は残念ながら他の人が落札したのですが、落札期限までにその出品物の紹介写真をiPhoneに取り込み、拡大しながら模写するという大胆な第一作でした。それで、更にヤフオクを漁って斗南さんの「百福図を発見し、落札いたしました。2700円でありました(笑) その顛末は下記をご覧ください。
さて、その後百福図、百寿図4枚を書いたのです。これらは、書や字の良し悪し・巧拙はさておき、いかに整然と、同じ大きさ・線質で、間違うことなく100文字を書き上げる、かが最も重要であります。字が多い分、個々の字が多少下手でも目立たないのです。また、芸術品や書作品というより、おめでたい席などに掛けられる「縁起物」と位置づけするのがよかろう、と思います。
しかし、ともあれ、はみ出したり字が滲んだり太過ぎたらアウト、細心の注意を払う「集中力」と100文字を同じ調子で書き上げるという「忍耐力」が求められるのです。途中で失敗したら全部書き直し、それまでの努力と時間が無駄になるので、一発勝負の心構えが大事です。ワタシは4作作りましたが失敗は一度だけ、必死でありました。
出来上がったもののうち一つは、知り合いに差し上げました。表装するのはお金がかかるので、裏打ちだけしたものを送り、パネルかなにかに収めてください、表装するほどの価値はありませんよと念押しいたしました。
で、残ったものの内「百福図」を表装したいと願うようになったのです。今まで、自分の書作品を表装に出したことは一度もありません。いつかはチャレンジして、自分でやればいいのです。いかんせんまだその経験が無く、失敗する確率が極めて高いのです。条幅なら同じサイズの和紙を薄めた糊で張り合わせ補強する(裏打ち)のですが、もし失敗すれば三日がかりで書き上げた「労作(笑)」が紙くずになってしまうことを恐れたのです。
町の額装屋さんに聞いた所、最低1万円位から、15千円だせばちゃんとしたものになりますという答えでした。しかし、どうせお金を出すなら、わが師に頼めばはるかに格調の高い表装が出来るだろう、コロナで教室の時間が減っているのならば手すきの時間をあてて表装して貰おう、と考えたのです。
ワタシの拙作を差し出して、師匠に表装させるというのは、まことに失礼極まりないとも考えましたが、持つべきものは友、書道教室の隣に座るM女子は、何度も先生に表装して貰ったというのです。失礼ながらMさんは、おしゃべり好きで、書芸自体にはほとんど熱意や意欲も無く、経験年数の割にはあまりお上手ではない(失礼)のですが、その人が幾つも表装して貰ったのなら、ワタシも一つくらいは良かろうと思ったのです。
そして待ちに待った表装が出来上がりました。完全に表装に書が負けております。「(ワタシの)子供さんの結婚のお祝いなので代金はいらないわ」、と固辞されたのですが、とんでもない、こんな立派なものを作っていただいてタダにしたら罰が当たります。
残念なことに、この時の落款に使った印は、篆刻も初心者の頃の作で、とても自慢できるものではありません。また、気力体力視力が充実した時に書き直そうかと思います。するとまた表装代がかかるか・・・
そして先生からは有難いことに自筆のお手紙を頂戴いたしました。
はい、これが本物の書家さんの書であります。「この先百の福では収まり切れない事でしょう」、と有難いお言葉を添えていただきました。こんな素敵な書を頂いたら2万や3万の表装代など安いものであります。
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