植物園「 槐松亭 」

バラと蘭とその他もろもろの植物に囲まれ、メダカと野鳥と甲斐犬すみれと暮らす

あの日に帰りたい

2020年11月13日 | 雑感
 中島みゆきさんのCD「リマスター コンプリート 18枚」がヤフオクで落札し届きました。彼女のデビューアルバム(1976)から18番目までセットです。当然発売当時はLPレコードでしたが、貧乏学生であったワタシにとってアルバムを発売の都度買う余裕はなかったのです。

 3番目のアルバム「あ・り・が・と・う」(1977.6)を聴き始めのあたりから、懐かしさがこみ上げてきました。その時ワタシは、19歳、田舎から出てきて、金沢文庫の学生寮に入寮、多感な十代最後の頃です。寮生の誰かに借りたものだか、あるいはその時一緒に入寮していた兄の購入したものだか、もう遠い昔の事でよく覚えておりません。
 同時期に、レコードデビューしたてで、大学のキャンパスで自分のレコードを売っていた「ユーミン(荒井由実)」などの曲もよく聴きました。ひこうき雲やコバルトアワーなどのアルバムは毎日聴きました。

 金沢文庫は、北条実時が設けた日本最古の文庫であります。今でいう図書館みたいなものであったのでしょう。そして「稱名寺」を併設し、昔は寺前町としてにぎわったとか。それよりも、小柴という小さな漁港があり東京湾の「江戸前」と言われる魚貝漁が盛んであったようです。いつも行っていた銭湯には、ちょくちょく刺青をしたオジサンを見かけました。当時は、漁師たちの間で刺青が流行っていたそうです。古い下町で、地元の大人たちは、田舎から出てきた貧乏学生に優しく、温かく接してくれました。

 駅前の商店街は「スズラン通り」と呼ばれ、古くからの商店が軒を連ねて人通りも多かったのです。その通りの入り口に「小田薬局」がありました。後になって知ったのは小田和正さんの実家だということ、時々風邪薬などを買ったりしていましたが、すでにその頃は「オフコース」として活躍していたようです。
 商店街の中ほどにあった狭い狭い喫茶店、九州出身というママさんは九州訛りで母親みたいに思えました。当時流行していたプロコルハルムの「青い影」をいつも流していました。「学生街の喫茶店」というガロの歌が流行っていたのはもう少し前の事でしたか。大学の傍、横浜駅地下の喫茶店と、週に1,2回学校に行った日だけはよく喫茶店に行っては煙草を吸っていました。必ず店内にはジャズや、はやり歌が流れるというような時代でした。

  あの頃何を考えていたのか、何をしていたのか、みゆきさんの歌を聴かないようになったのは何故?いつからか、ほとんどが記憶の沼の中に沈んでしまいました。

 ワタシの青春は、この木造の汚く古い学生寮の4年間に詰まっています。今でも時折その寮のことが夢に出てきます。恋愛のような、そうでないような関係の女性たち、アルバイトに明け暮れる怠惰な生活、学生寮に住む多くの先輩後輩の話や考え方、そんなことや沢山の音楽とに囲まれて、大事な時間を無為に浪費してきました。同時に、夢を持ち感受性に富んだ若者として、その時々の様々な経験や出来事が、以降の人生の礎にもなっているのだろうとも思います。
 
 大学を卒業し、就職してからというもの、そうした音楽に徐々に遠ざかってしまいました。社会人としての、わずかな楽しい時間と長くキツイ日々の中で、音楽など聴いている気持ちのゆとりも若さと同様に失われていったのでしょうか。
 
 それから40年以上経過しました。沢山の事を得て、沢山の事を失いました。あの時聴いた歌を今聴きなおしています。若さを取り戻したいとは思いません。しかし、ユーミンの歌詞にある「あの頃のワタシに戻って」会いたい人も居ます。会って謝りたい人も居ます。やり直しが出来るものなら、別の大学に入学し、やりたかった勉強をして、誰に気兼ねなく思うとおりの仕事を選べたら、と思うと悲しい恋心を唄う、みゆきさんやユーミンの歌が切なく耳の奥から離れません。物思う秋であります。


 
コメント
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