「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉がありますが、彼岸入りしてから山形も暖かかな気候に恵まれております。
春を感じるようになると、なぜか「茗荷(みょうが)」が頭の中に登場してきて、「使え!」のシュプレヒコールを繰り返すようになります。(シュプレヒコールはドイツ語で大勢が声を揃えて唱えること)
「フランス料理で茗荷?」とお思いになった方もいらっしゃるかもしれませんが、軽くグリルやソテーしてもその苦味がアクセントになって美味しいですし、ピクルスにしてもその食感と風味が爽やかで申し分ありません。
「茗荷を食べると物忘れする」という俗説がありますが、あれは「茗荷」を陥れる悪の組織の意図的な流布によるものと推測されます。
もし、それが本当ならば食べた人全員、映画「花いちもんめ」の主演、千秋実状態になってしまうではないですか。(映画「花いちもんめ」は素晴しい映画です。主演の故千秋実さんは鬼気迫る演技で主演男優賞を受賞しております。興味のある方は是非ご覧ください)
では、そのグリルやソテーした茗荷をどのようにしてお客様に出すのか?私は、グリルやソテーをした茗荷にバージンオリーブオイルとフランスの塩を掛けてシンプルに、などという料理は絶対に出しません。(望んでいる場合は別ですよ)
料理には「展開」というものがあります。最近の悪い風潮で「シンプルにオリーブオイルと塩だけ」という考え方がありますが、それは「料理」として成立しているのでしょうか?私はそれが「素材の味を引き出している」とは思えませんし、家庭でも作れるようなものを店で出すのには疑問を抱いてしまいます。
よく「フランス料理は足し算の料理」と言われておりますが、それは「素材」に素材が持ち合わせていない「違う要素」を組み合わせて美味しさを高める、といういわゆる相乗効果を狙ったものであり、それこそがフランス料理の真骨頂といえるでしょう。
「日本料理は引き算の料理」とおっしゃった方もいましたが、その考え方には疑問を持ってしまいます。
「素材」を「0」として考えた時に、それに手を加える事は、それ自体「足し算」になりますから、日本料理の場合、「鰆の西京焼き」であれば「西京味噌」の要素が足されている、と考える事が出来るのではないでしょうか。
では、刺身はどうなのか。刺身は「素材そのもの」と取れますが、「魚」という「素材」を「刺身」に昇華させるまでの過程は手が込んでいて、作業の慎重性、というのも求められます。
日本料理人の魚の扱い方を見たフランス料理人は「魚に手を掛けすぎており、自然な状態といえるのか?」と疑問に思ったそうですから、感覚の違い、というのは恐ろしいものです。
話を戻しますが、私が「茗荷」を料理に組み込むならば、「フォワグラ」を合わせるでしょう。
茗荷を縦に半割し、食感が残るよう断面のみソテーします。フォワグラはエスカロップ(厚めのスライス)にし、表面に小麦粉をはたいてソテーします。
ソースは、玉葱をスライスし、バターで茶色になるまで炒めたものにシェリーヴィネガーを加え、煮詰め、フォン・ド・ヴォーを加えてさらに煮詰め、バターを加えた「シェリーヴィネガー風味のソース・リヨネーズ(リヨネーズはリヨン風という意味。「麦畑」を歌ったのは「オヨネーズ」ですが、「リヨネーズ」とはまったく関係ありません)」を流します。
玉葱の甘み、シェリーヴィネガーの酸味、フォワグラのリッチな香りととろける旨み、「シャク」と微かに音が出る食感と独特の苦味と爽やかさを持つ茗荷、そのハーモニーが一皿に集約されているのは、まるでマスカレード(仮面舞踏会)のようではないですか。
「ボンソワール、マドモアゼル、もうお帰りですか?僕ともう一踊りいかがです?」
「ありがとう、でも行かなきゃ。月が出ているうちに帰るの。月が沈んでしまったら現実に戻るでしょ。そうなる前に楽しい想い出を抱いて眠るわ。」
「僕がその楽しい想い出になる、というのはどうですか?」
「ふふふ、順番待ちになるけどいいかしら?」
「何番目ですか?」
「108番目よ。」
「えっ?!108番目?」
「そう、煩悩の数だけお待ちになって。それじゃあ、おやすみなさい。」
「あっ!ちょっ、ちょっと!」
そんな、そんな幻想すら出てくるような料理を作れるように日々頑張らねば。
春を感じるようになると、なぜか「茗荷(みょうが)」が頭の中に登場してきて、「使え!」のシュプレヒコールを繰り返すようになります。(シュプレヒコールはドイツ語で大勢が声を揃えて唱えること)
「フランス料理で茗荷?」とお思いになった方もいらっしゃるかもしれませんが、軽くグリルやソテーしてもその苦味がアクセントになって美味しいですし、ピクルスにしてもその食感と風味が爽やかで申し分ありません。
「茗荷を食べると物忘れする」という俗説がありますが、あれは「茗荷」を陥れる悪の組織の意図的な流布によるものと推測されます。
もし、それが本当ならば食べた人全員、映画「花いちもんめ」の主演、千秋実状態になってしまうではないですか。(映画「花いちもんめ」は素晴しい映画です。主演の故千秋実さんは鬼気迫る演技で主演男優賞を受賞しております。興味のある方は是非ご覧ください)
では、そのグリルやソテーした茗荷をどのようにしてお客様に出すのか?私は、グリルやソテーをした茗荷にバージンオリーブオイルとフランスの塩を掛けてシンプルに、などという料理は絶対に出しません。(望んでいる場合は別ですよ)
料理には「展開」というものがあります。最近の悪い風潮で「シンプルにオリーブオイルと塩だけ」という考え方がありますが、それは「料理」として成立しているのでしょうか?私はそれが「素材の味を引き出している」とは思えませんし、家庭でも作れるようなものを店で出すのには疑問を抱いてしまいます。
よく「フランス料理は足し算の料理」と言われておりますが、それは「素材」に素材が持ち合わせていない「違う要素」を組み合わせて美味しさを高める、といういわゆる相乗効果を狙ったものであり、それこそがフランス料理の真骨頂といえるでしょう。
「日本料理は引き算の料理」とおっしゃった方もいましたが、その考え方には疑問を持ってしまいます。
「素材」を「0」として考えた時に、それに手を加える事は、それ自体「足し算」になりますから、日本料理の場合、「鰆の西京焼き」であれば「西京味噌」の要素が足されている、と考える事が出来るのではないでしょうか。
では、刺身はどうなのか。刺身は「素材そのもの」と取れますが、「魚」という「素材」を「刺身」に昇華させるまでの過程は手が込んでいて、作業の慎重性、というのも求められます。
日本料理人の魚の扱い方を見たフランス料理人は「魚に手を掛けすぎており、自然な状態といえるのか?」と疑問に思ったそうですから、感覚の違い、というのは恐ろしいものです。
話を戻しますが、私が「茗荷」を料理に組み込むならば、「フォワグラ」を合わせるでしょう。
茗荷を縦に半割し、食感が残るよう断面のみソテーします。フォワグラはエスカロップ(厚めのスライス)にし、表面に小麦粉をはたいてソテーします。
ソースは、玉葱をスライスし、バターで茶色になるまで炒めたものにシェリーヴィネガーを加え、煮詰め、フォン・ド・ヴォーを加えてさらに煮詰め、バターを加えた「シェリーヴィネガー風味のソース・リヨネーズ(リヨネーズはリヨン風という意味。「麦畑」を歌ったのは「オヨネーズ」ですが、「リヨネーズ」とはまったく関係ありません)」を流します。
玉葱の甘み、シェリーヴィネガーの酸味、フォワグラのリッチな香りととろける旨み、「シャク」と微かに音が出る食感と独特の苦味と爽やかさを持つ茗荷、そのハーモニーが一皿に集約されているのは、まるでマスカレード(仮面舞踏会)のようではないですか。
「ボンソワール、マドモアゼル、もうお帰りですか?僕ともう一踊りいかがです?」
「ありがとう、でも行かなきゃ。月が出ているうちに帰るの。月が沈んでしまったら現実に戻るでしょ。そうなる前に楽しい想い出を抱いて眠るわ。」
「僕がその楽しい想い出になる、というのはどうですか?」
「ふふふ、順番待ちになるけどいいかしら?」
「何番目ですか?」
「108番目よ。」
「えっ?!108番目?」
「そう、煩悩の数だけお待ちになって。それじゃあ、おやすみなさい。」
「あっ!ちょっ、ちょっと!」
そんな、そんな幻想すら出てくるような料理を作れるように日々頑張らねば。