肌寒さがぶり返してきたかのような5月最後の日、明日から衣替え、と言われても説得力のない今日この頃、皆様、いかがお過ごしでしょうか。
今までですと「明日から衣替え」という言葉を聞いただけで「そうだよな、それくらい暖かくなってきたもな・・・」と漠然と思ってきたものですが、どうですか、この肌寒さ、ここから一気に来るんじゃないでしょうな、暑さが。
日々、電力不足懸念の情報が流されておりますが、もう、あれだけ無尽蔵に出来るようなアトミックなエネルギーに依存していたら、自然エネルギーに切り替え、と言われても代替エネルギー施設がどれだけ必要なのか、と思ってしまいます。
私的には、太陽光パネルを張り巡らせたメガフロートを何艘も作り、日本の周りに停留させておくと太陽光エネルギーを思いっきり摂取でき、且つ、海面温度の上昇を防ぐ、まさに自然に優しいエネルギー計画ではないか、と考えられますが、建設費用の事を試算すると財政には優しくない計画でしょうな。
余談ですが、「鉄腕アトム」の名前は「アトミック(原子力)」から来ているそうですが、老朽化したアトム暴走、などの想定はしなくて良いのか?と何となく思ってしまった次第です。
さて、話は変わりますが、先日、山形牛ランプ肉の話を載せたところ、当ブログを全く読んだ事のない、いや、読む意思がない常連の方や遠方からいらした方から注文を頂きました。
暗に「山形牛ランプ肉あるから来てね。」という情報をブログに流したのですが、読んでいない方からの注文、すれ違いの純情ですな。
有り難い事に皆様に喜ばれましたからホッと胸を撫で下ろす事ができましたが、特に県外からいらした方(クラシック音楽関係の方)は山形牛に興味を持たれたようですので、県産畜産物のPRをする事に成功しました。(結構、大げさ)
先日書きましたように、元々、精肉屋さんが生食用に仕入れたものですから物には絶対の自信はあったのですが、いまだに緊張するものであります、肉を焼く時は。
これ以上火を入れると焼き過ぎて硬くなりそうだがこれ以上火を入れないと生っぽい印象になる可能性がある、どうする?俺?という刹那的な気持ちになりながらの作業は、友達以上恋人未満、などという曖昧さ所ではありません、当然ですけどね。
因みに、昔、国生さゆりが「コレ以上アレ未満」という歌を歌っていましたね、どうでもいい余談ですが。
それはさておき、人それぞれでしょうが、肉を焼いている時(この場合、肉の種類は全般的に)の焼き加減を見るのは金串を指して中の温かさを計る、というのが一般的なようですが、私はそれをしません。
理由としましては簡単です、肉汁が流れる原因を作るからであります。
私のイメージですが、肉を焼く、という事は、肉の表面は焼き固められ肉の中の繊維との間の水分が温められ肉に火が入り始める、というイメージであります、あくまでも私のイメージですがね。
その「温められた水分」というのが所謂(いわゆる)「肉汁」になるわけですから、肉の繊維と繊維の間を駆け巡っている温かい水分、つまり、肉汁を含んでいる所に金串を指してしまえばそこから肉汁が流出する事は容易に想像できます。
肉汁が流出してしまえば租借した時に多く感じるのは水分よりも繊維、そうなると肉の食感がパサついた感じになるはずです。
そうならないために金串を指さないのですが、では、どうやって肉の火の入りを確かめるのか?これも一般的ですが、触って確かめるしかないのです。
「触診」ではないですが、触ってみて中がどういう状態になっているかイメージするのです。
この柔らかさだったらまだ繊維が縮んでいないな、ここまで硬くなれば繊維が縮み、中の水分が温められているのではないだろうか、といったように、中ではこういう事が起こっているのではないか、というのを仮定して調理を進めていきます。
今、肉の内部はこれくらいの暖かさだろう、内部の水分が温まりグルグル動き回っているのではないか、フライパンの接地面が過度に火が入っているかも知れない、焼いて休ませているが食事の進み具合でもう一度オーブンに入れ温めるがこの一度で火は入り過ぎないだろうか。
肉を焼く、という事は肉に気を使い子供のように可愛がり、その成長を見守る、というのとほぼ同じのような気がします。
そして、提供する段階になりナイフを入れる時、こう思うのです。
頼む!断面の綺麗な笑顔を見せてくれ!
毎回、そのような緊張感を持って望む肉焼き、忙しい時は胃が痛くなりますが、断面の笑顔を見た時はそれまでの事が帳消しになるくらい嬉しいものです。
ここまで読まれてお気づきになられたと思いますが、肉焼きには、良く言えば「イメージ」「想像」、悪く言えば「妄想」が必要なのです。
いや、肉焼きに限らず、調理全般には「妄想」が必要でしょう。
「妄想」、私的にはそれほど苦労するものではありません。
なぜかって?このブログも相当入っていますからな、「妄想」が。
今までですと「明日から衣替え」という言葉を聞いただけで「そうだよな、それくらい暖かくなってきたもな・・・」と漠然と思ってきたものですが、どうですか、この肌寒さ、ここから一気に来るんじゃないでしょうな、暑さが。
日々、電力不足懸念の情報が流されておりますが、もう、あれだけ無尽蔵に出来るようなアトミックなエネルギーに依存していたら、自然エネルギーに切り替え、と言われても代替エネルギー施設がどれだけ必要なのか、と思ってしまいます。
私的には、太陽光パネルを張り巡らせたメガフロートを何艘も作り、日本の周りに停留させておくと太陽光エネルギーを思いっきり摂取でき、且つ、海面温度の上昇を防ぐ、まさに自然に優しいエネルギー計画ではないか、と考えられますが、建設費用の事を試算すると財政には優しくない計画でしょうな。
余談ですが、「鉄腕アトム」の名前は「アトミック(原子力)」から来ているそうですが、老朽化したアトム暴走、などの想定はしなくて良いのか?と何となく思ってしまった次第です。
さて、話は変わりますが、先日、山形牛ランプ肉の話を載せたところ、当ブログを全く読んだ事のない、いや、読む意思がない常連の方や遠方からいらした方から注文を頂きました。
暗に「山形牛ランプ肉あるから来てね。」という情報をブログに流したのですが、読んでいない方からの注文、すれ違いの純情ですな。
有り難い事に皆様に喜ばれましたからホッと胸を撫で下ろす事ができましたが、特に県外からいらした方(クラシック音楽関係の方)は山形牛に興味を持たれたようですので、県産畜産物のPRをする事に成功しました。(結構、大げさ)
先日書きましたように、元々、精肉屋さんが生食用に仕入れたものですから物には絶対の自信はあったのですが、いまだに緊張するものであります、肉を焼く時は。
これ以上火を入れると焼き過ぎて硬くなりそうだがこれ以上火を入れないと生っぽい印象になる可能性がある、どうする?俺?という刹那的な気持ちになりながらの作業は、友達以上恋人未満、などという曖昧さ所ではありません、当然ですけどね。
因みに、昔、国生さゆりが「コレ以上アレ未満」という歌を歌っていましたね、どうでもいい余談ですが。
それはさておき、人それぞれでしょうが、肉を焼いている時(この場合、肉の種類は全般的に)の焼き加減を見るのは金串を指して中の温かさを計る、というのが一般的なようですが、私はそれをしません。
理由としましては簡単です、肉汁が流れる原因を作るからであります。
私のイメージですが、肉を焼く、という事は、肉の表面は焼き固められ肉の中の繊維との間の水分が温められ肉に火が入り始める、というイメージであります、あくまでも私のイメージですがね。
その「温められた水分」というのが所謂(いわゆる)「肉汁」になるわけですから、肉の繊維と繊維の間を駆け巡っている温かい水分、つまり、肉汁を含んでいる所に金串を指してしまえばそこから肉汁が流出する事は容易に想像できます。
肉汁が流出してしまえば租借した時に多く感じるのは水分よりも繊維、そうなると肉の食感がパサついた感じになるはずです。
そうならないために金串を指さないのですが、では、どうやって肉の火の入りを確かめるのか?これも一般的ですが、触って確かめるしかないのです。
「触診」ではないですが、触ってみて中がどういう状態になっているかイメージするのです。
この柔らかさだったらまだ繊維が縮んでいないな、ここまで硬くなれば繊維が縮み、中の水分が温められているのではないだろうか、といったように、中ではこういう事が起こっているのではないか、というのを仮定して調理を進めていきます。
今、肉の内部はこれくらいの暖かさだろう、内部の水分が温まりグルグル動き回っているのではないか、フライパンの接地面が過度に火が入っているかも知れない、焼いて休ませているが食事の進み具合でもう一度オーブンに入れ温めるがこの一度で火は入り過ぎないだろうか。
肉を焼く、という事は肉に気を使い子供のように可愛がり、その成長を見守る、というのとほぼ同じのような気がします。
そして、提供する段階になりナイフを入れる時、こう思うのです。
頼む!断面の綺麗な笑顔を見せてくれ!
毎回、そのような緊張感を持って望む肉焼き、忙しい時は胃が痛くなりますが、断面の笑顔を見た時はそれまでの事が帳消しになるくらい嬉しいものです。
ここまで読まれてお気づきになられたと思いますが、肉焼きには、良く言えば「イメージ」「想像」、悪く言えば「妄想」が必要なのです。
いや、肉焼きに限らず、調理全般には「妄想」が必要でしょう。
「妄想」、私的にはそれほど苦労するものではありません。
なぜかって?このブログも相当入っていますからな、「妄想」が。