とりあえず禁パチで「小さく」死んだものの、次の手立てがなく、毎日、ぼおーっと暮らしている。衣食住に満ち足りると、後は自己実現というが、今の自分が本当の自分かと思うと、ぞっとする。糸の切れた風船のように、日常に漂っている。また、羅針盤のない船のようだ。サルトルは人間は完成されたものではなく、途上のもの、未来に向かって投企されるものと言っている。若い頃には恐いものなどなく、自己実現のために未来に向かって投企し続けてきた。勿論まだ61歳のぼくは、あと10年くらいは、未来に向かって投企する生き方をするべきだ。しかし、神経的な持病を持っていて、ムリするとすぐ疲れが出るので、今よりもひどい再発を恐れて、現役を退いてしまった。社会への参加、係わり合いは疲れるので、一切控えてしまっている。かと言って、やっぱりぼくも人間、何かに関わってないと、充実感がない。その矛盾のなかでモンモンとしている。やっぱり、「生きがい」「死にがい」といったものが欲しいなあ。凛々しく生きてみたいのだが・・そんなことを考えていると、金沢の従兄弟の栄子から電話が来た。「あんちゃん死んだの、死ってる?」。暗い声だった。あんちゃんとは、本家の従兄弟で79歳で、四日前に逝ったと小松の従兄弟の奥さんから電話が当日あって、体力的に金沢まで葬式に行ける自信がないから、即日京都の兄と連絡を取って、ふたり分の香典を送っていた。「克己にえらい怒られた。京都はなんで来ないんだって・・」。克己とは小松の従兄弟のことだ。京都とはぼくの兄と、姉と、ぼくのことを意味する。兄は障害者の次男と高齢で痴呆の入った母を抱えて家を空けられない。姉は旦那が難病を患い看病に追われている。そしてぼくは、神経的な持病で、とても金沢まで行く体力に自信がない。で、香典ですませてしまったのだ。元気な30年前には金沢で「いとこ会」に行き、50人以上の親戚が旅館に集まったことがある。しかし、もうそんな元気はなく、親戚とも疎遠になっている。そんな事情を克己に言うこともなく、栄子には「そうか、仕方ないもんなあ」とだけ応えた。もう、不義理も仕方ないと思っている。だから母が死んでも親近者だけで密葬し、後で葉書で親戚には知らせるつもりだし、オレが死んでもカミさんにはそうしてくれと言っているし、カミさんが先に死んでもそうしようと思っている。もう、旅立ちに際してはそれでいいではないか、そう思っている。そのように人との係わり合いを無くしていく一方で、逆に人と関わりあいたいとも思う矛盾のなかで、今日も生きている。人間というのはやっかいな動物だ。傍でペットの猫がのんきそうに熟睡している。
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