柳田国男といえば民俗学の父で、「遠野物語」を直ぐに連想します。ただ、連想はするもののこれまで私はその「遠野物語」を読んでみようとは思いませんでした。食わず嫌いの部類であったのだと思います。しかし、実際に手にとってみるとその印象は大違いで、これがなかなか面白いのです。ただ読みやすさからすれば、それが出版されたのが、明治43年(1910年)のことなのでちょっと難しい(柳田は350部を自費出版したといいます)。その難しさが今読むと格式があって、その話が遠野で実際に語り伝えられてきたのだと逆に感じることができるという効果もありました。
この「遠野物語」はよく知られたザシキワラシやカッパのように比較的親しみをおぼえるものから、得体のしれない山の女神、山男のような話、オシラサマ、オクナイサマという東北の土着の神様や、デンデラ野やダンノハナという空間で姥捨て山を思わせる話まで出てきて、非常に多様な民俗空間を想像させてくれます(どこそこの誰其がどうしたという話もあって妙なリアリティもあります)。昔はモノノケなのか八百万の神なのか妖怪なのか、まあそんなようなものをそこかしこに感じていたんだということが感じとれます。現代のように電気も至るところまで行き渡っていない時代だから、日が暮れると深い闇に月光のみの明るさの神秘的な森や川などは、モノノケであるのか神様であるのか妖怪であるのか、それは何なのかわからいものの超自然的な存在を感じるに充分であったのだと思います。あるいは、まだ当時は野生の感性が活きていて非常に霊性の高い土地、空間を感じ取っていたのかもしれません。
私は一貫して都会育ちできたので、そうした自然そのものから生まれるスーパーネイチャーな感性というのは正直あまり馴染みがなく育ったものの、霊性が高いものを感じ取る力とか、魑魅魍魎、妖怪などを感じ取れる感性にどこか憧れというかそんなものを抱くわけです。そうした存在は、感じる向こう側にそれが実在するのか?はたまたそれは、自分の心の映し鏡、人の心の中をそこに投影しているのか?いずれも自然の神秘であり、人の心の神秘なのですから、ワクワクしてきます。「遠野物語」とはそうしたものを感じさせてくれる読物だったとは露知らずの私でした。
そんな「遠野物語」は、柳田国男がフィールド・ワークして集めてきたものではなく、冒頭に「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年二月ごろより始めて夜分折々訪ね来たりこの話をせられしを筆記せしなり」と記述されているように、遠野出身の佐々木喜善という人物からの聞き書きによって誕生したというものなのでした。つまり、聞き手と語り手がいる場合、聞き手(=いわゆるインタビュアー)側が、表にでたというユニークな形態をとっているというのも、読みながらいきなり、えっ?そうなのということがわかり、れそれがまた民俗学にとって歴史的な書物となっているのが興味深いものだなあと思ったのでした。
遠野物語・山の人生 (岩波文庫) | |
柳田 国男 | |
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遠野物語 (集英社文庫) | |
柳田 国男 | |
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