飾釦

飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

司馬遼太郎「空海の風景」を読む②

2011-09-13 | Weblog

今日は昨日アップした司馬遼太郎の「空海の風景」が面白かった。その本を読みながら赤線を引きたくなった箇所の文章をピックアップしたものをまとめました。

 

“空海はさらにぬけ出し、密教という非釈迦的な世界を確立した。密教は釈迦の思想を包摂しはしているが、しかし他の仏教のように釈迦を教祖とすることはしなかった。大日という宇宙の原理に人間のかたちをあたえてそれを教祖としているのである。そしてその原理に参加ー法によってーしさえすれば風になることも犬になることも、まして生きたまま原理そのものにー愛欲の情念ぐるみにーなることもできるという可能性を断定し、空海はこのおどろくべき体系によってかれの同時代人を驚倒させた。”

  

“人間がまなのままでというよりなまであれなこそ、たとえば性欲をもったままで、というより性欲があればこそ即身で成仏でき、しかも成仏したまま浮世で暮らすことができるというあたらしい体系なのである。”

  

“人間における性の課題をかれほどに壮麗雄大な形而上的世界として構成し、かつそれだけでなくそれを思想の体系から造形芸術としてふたたび地上におろり、しかもこんにちなおひとびとに戦慄的陶酔をあたえつづけている人物が他にいたであろうか。”

  

“空海がもとめていたのはとくにこの後者ー即身成仏の可能性と、諸仏、諸菩薩と交流してそこから利益をひきだすという法ーであった。”

  

“死のみが貴くはなく、生命もまた宇宙の実在である以上、正当に位置づけられれば、生命の当然の属性である煩悩も宇宙の実在として、つまり宇宙にあまねく存在する毘盧遮那仏の一表現ではないか、とまで思いつめたであろう。”

  

“空海は後年、最澄に対してつねにとげを用意した。お人好しの並みな性格ではとうてい為しがたいような最澄に対する悪意の拒絶や、痛烈な皮肉、さらには公的な論文において最澄の数字を低く格付けするなどの、いわばあくのつよい仕打ちもやってのけた。”

  

“かれみずからが感得した密教世界というのは、光線の当てられぐあいによってはそのまま性欲を思想化した世界でもあった。さらにいえば性欲がなおも思想化されきらず粘液をなまなましく分泌させている世界であり、そういう思想化されきらぬ分泌腺をも宇宙の真の実存として肯定しようとする世界でもあった。空海という思想的存在に、千数百年の後世からふりかえってもなおそのにおいにおいてなまなましさを感じることができるのはおそらく、そのせいであるにちがいない。”

 

 

“かれは帰国後、自分と国家・宮廷を対等のものと見た。ときにみずからを上位に置き、国家をおのれの足もとにおき、玉を蹴ころがすように国家をころがそうという高い姿勢を示した。その理由のひとつとして、自分こそ普遍的真理を知っている、国王が何であるか、というどすの利いた思想上の立場もあったであろう、そのほかに、「自分の体系を国家そのものが弟子になってわが足もとにひれ伏すべきである」という気持があった。さらにはその気持をささえていたのは、遣唐使船に乗るにあたってかれが自前で経費を調達し、その金で真言密教のぼう大な体系を経典、密具、法器もろとも持ちかえったという意識があったからにちがいない。空海は私学の徒であったとさえいえる。”

  

“自分の行動についてはすぐれた劇的構成力をもっていた。かれの才能の中でいくつか挙げられる天才や異能のうち、この点がもっともすぐれたものの一つといっていい。”

 

 

“空海は、ながい日本歴史のなかで、国家や民族という瑣々たる(空海のすきな用語のひとつである)特殊性から抜けだして、人間もしくは人類という普遍的世界に入りえた数すくないひとりであったといえる。”

 

“密教は、インドでも唐でも、なお多分に流れたー土俗のにおいのあるー状態にあった密教を、あまりにみごとに矛盾を消し、論理化し、くるいのない結晶体としてつくりあげた。このため、空海以後に出てくる真言宗のひとびとは、教学の面でやることがなかったのではないか。”

 

“空海は東大寺の教学に密教を入れ、東大寺のなかに真言院をたて、東大寺の本尊である毘盧遮那仏(大仏)の宝前で、密教の重要経典である理趣経を誦むべく規定しこんにちに、いたるまで東大寺の大仏殿で毎日あげられている、お経は理趣経なのである。”

 

“空海は、インドや中国では単なる呪法のようなものに見られがちだった密教を、仏教に仕上げたかった、それがためにはいままでの仏教のすべても援用せねばならず、密教を再構成するというよりもあらたに創りだすほどの基本的姿勢をもって編成せねばならなかった。そのためには在来の密教にやや乏しかった理論をあらたに構築して他宗の批判に堪えせしめるだけではなくそれらを圧倒するだけの力を持たさねばならず、それを可能にするだけの精密な論を編みこまねばならなかった。”

  

“空海はかれの哲学的な意味をふくめて倨傲であった。空海は長安においては皇帝にまで名のとどいた存在であり、空海のその後の意識からみても、日本という夷びた小国の王などさほど貴しともおもっていなかったにちがいない。また自分の教義の宣布のためのに天皇の権力は利用しても、天皇そのものは空海の宇宙と生命の思想からみてもただの人間であるにすぎない、と思っていたに相違なく、天皇といえどもただの人間にすぎないことを空海ほど露骨にそう思っていたらしい人物もまれであったかと思える。”

  

“空海は多分に芸術とされる文章的世界と、そして現実とのあいだの境界が、ゆらゆらと立ちのぼる陽炎のように駘蕩とした時代人でもあった。その意味においてはいかがわしさのなかにものどかさがあるようでもあり、しかしながら同じ時代の人である最澄がそうでもないことを思うとき、空海の形相のしたたかさを思い、この男はやはり西域人不空の再来であるのか、とややぼう然とする感じで思わざるをえない。”

  

“真言密教は宇宙の気息の中に自分を同一化する法である以上、まず宇宙の気息そのものの中にいる師につかねばならない。師のもとで一定の修行法則をあたえられ、それに心身を没入することによってのみなま身の自分を仏という宇宙に近づけうるのである。空海は、三密という。三密とは、動作と言葉と思惟のことである。仏とよばれる宇宙は、その本質と本音を三密であらわしている。宇宙は自分の全存在、宇宙としてのあらゆる言語、そして宇宙としてのすべての活動という「三密」をとどまることなく旋回しているが、真言密教の行者もまた、その宇宙の三密に通じる自分の三密ー印をむすび、真言(宇宙の言葉)をとなえ、そして本尊を念じるーという形の上での三密を行じて行じぬくこと以外に、宇宙に近づくことができない。それを最澄は筆授で得ようとするか、と空海は思いつづけている。”

  

“密教は、宇宙の原理そのものが大日如来であるとし、その原理による億兆の自然的存在、およびその機能と運動の本性をすべて菩薩とみている。さらにはすべての自然ー人間をふくめてーは、その本性において清浄であるとし、人間も修法によって宇宙の原理に合一しうるならばすなわちたちどころに仏たりうる、という思想を根本としている。”

 

 

“空海の書は、型体にはまらないのである。このことは生来の器質によるとはいえ、あるいは、自然そのものに無限の神性を見出だすかれの密教と密接につながるものであるかもしれない。自然の本質と原理ろ機能そのものが大日如来そのものであり、そのものは本来、数でいう零である。零とは宇宙のすべてが包含されているものだが、その零に自己を即身のまま同一化することが、空海のいう即身成仏ということであろう。”

 

 “”部分、司馬遼太郎「空海の風景」(中公文庫)より引用 

“かれは、日本文化のもっとも重要な部分をひとりで創設したのではないかと思えるほどにさまざまなことをした。思想上の作業としては日本思想史上の最初の著作ともいうべき『十住心論』その他を書き、また政治的には密教集団を形成し、芸術的には密教に必要な絵画、彫刻、建築からこまごまとした法具にいたるまでの制作、もしくは制作の指導、あるいは制作法についての儀軌をさだめるなどのことをおこなっただけでなく、他の分野にも手をのばした。たとえば庶民階級に対する最初の学校ともいうべき綜芸種智院を京都に開設し、また詩や文章を作るための法則を論じた『文鏡秘府論』まで書き、これによって日本人が詩文に参加するための手引をあたえ、その道に影響するところがあり、さらには『篆隷万象名義』という日本における最初の字書もつくった。このほか、讃岐の満濃池を修築し、大和の益田池の工営に直接ではないにせよ参与した。多分に伝説であるところの「いろは」と五十音図の制作者であるという事実性のあいまいな事柄をふくめずとも空海が帰朝後のみじかい歳月のなかでやった事は、量といい質といい、ほとんど超人の仕事といっていい。”

 

空海の風景〈上〉 (中公文庫)
司馬 遼太郎
中央公論社
空海の風景〈下〉 (中公文庫)
司馬 遼太郎
中央公論社
『空海の風景』を旅する (中公文庫)
NHK取材班
中央公論新社
NHKスペシャル 空海の風景 [DVD]
司馬遼太郎
NHKエンタープライズ

 

“もともと密教というのは、唐では「宗」という一個の体系のものとは言いがたく、仏教界におけるありかたも、既成仏教のなかにあらたに入ってきた呪術部門という印象のものであった。空海が唐ばなれをしたのは、本来仏教に付属した呪術部門である密教を一宗にしただけでなく、既成仏教のすべてを、密教と対置する顕教として規定し去ったことである。しかも密教を既成仏教と同席へひきあげたのではなく、仏教が発達して到達した最高の段階であるとし、従って既成仏教を下位に置き、置くだけではなく『十住心論』において顕教諸宗の優劣を論壇し、それを順序づけた。要するに多分に技術的な呪術部門であった密教が、空海の手で巨大な宗教体系に仕上げられ、既成仏教からの独立性を主張しただけでなく、『御遺告』にいう「他人」が東寺に雑住しにくることさえ禁じたのである。「他人」の代表的な存在は、密教を依然として呪術部門としたがる最澄の天台宗の徒であった。”

 

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