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飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

司馬遼太郎「空海の風景」を読む①

2011-09-12 | Weblog

司馬遼太郎の「空海の風景」を読みました。自称、本を読むのが好きな私なのですが実は司馬遼太郎の本を最後まで読了したのは、初めてでありました。面白くっていっきに読んだのですが、遅まきながら彼の作家としての偉大さ、知的巨人さに敬服させられたというのが何よりも印象として残りました。私は学生の頃にユングという深層心理を提唱した学者に興味を持ち、そこからマンダラを知り、そのマンダラを宗教的な装置としている密教や空海という存在を知ったのでした。そこで空海の本を当時数冊くらい読んだ記憶があるのですが、どうも頭に入らない、しっくりとこない感覚を持っていたのでした。それが今回、司馬遼太郎の本を読んだときは、それこそ人間としての空海なるものが感じられ、なるほど彼はこんな人だったんだと頭にすんなりと入ってきたのでした。やはり仏教学者の書く空海像であると専門的な用語も出てくるしどうもなじまない。膨大な資料から立ち上がってくる作家の想像こそが、私のような凡人にはわかりやすいのだと。

 

司馬遼太郎によると空海という存在は日本の思想史においてもグローバルに通用するユニバーサルな感性を持った稀有な人であったといいます。それは乱暴に言ってしまえば、密教が釈迦という仏教の祖を超えて、大日如来という宇宙そのもののを核に据えたことにより、この世に起こることは大日如来に包み込まれているという宇宙論的なスケールの大きな視点に立っている思想を空海が構築したからだということなのです。宇宙論的なダイナミズムの中で、生そのものが力強く肯定され、さらに生きているからこそ湧きあがってくる性欲なども肯定されるのだと。生きながらにして成仏、幸せを感じる即身成仏の思想。そんなようなことを司馬遼太郎は書いていたと思います。

 

本には、密教は釈迦が切り捨てたものを取り込んでいるといった風なことも書かれてもあったので、それを読んでいる私は密教はもちろん仏教をベースに培われたものの、あえて空海が広めた宗教を<密教>と読んでいるように、実は仏教とは最早違う立ち位置にあるものなのではないのか?と思えてしまうのでした。もともと細部に神は宿るとか、八百万の神というように、日本人の感性は御神体が岩であったり山であったり川であったりと自然の中に神を見出だすアミニズム的な宗教観を持っているので、自然や宇宙に大日如来をはじめとする仏の存在を感じとる密教とは非常に相性がいいと思えるのです。経典である金剛頂経と大日経の2つが1つという密教は、陰陽二元論を受け入れた我々の文化的基盤にもすんなりと入ってきたのではないか、そう思えるのです。

 

いずれにせよ、「空海の風景」は、それまで読まず嫌い?であった司馬遼太郎の偉大さを感じさせられた本でした。

 

空海の風景〈上〉 (中公文庫)
司馬 遼太郎
中央公論社
空海の風景〈下〉 (中公文庫)
司馬 遼太郎
中央公論社
『空海の風景』を旅する (中公文庫)
NHK取材班
中央公論新社
NHKスペシャル 空海の風景 [DVD]
司馬遼太郎
NHKエンタープライズ
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