飾釦

飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

僕は知らない寺山修司NO.163⇒劇団A・T・P-Tokyo公演「邪宗門」

2010-04-20 | 寺山修司
■日時:2010年4月17日(日)、14:00~
■劇場:ザムザ阿佐ヶ谷
■作:寺山修司
■演出:高野美由紀
■音楽:J・A・シィザー
■出演:高野美由紀、マメ山田、昭和精吾、浅野伸幸、福谷セイジ、他

この劇団のお芝居は連続して見ている。なぜなら寺山修司の作品を上演する数少ない劇団のひとつだからだ。その他には、「天井桟敷」直系のJ・A・シィザー率いる「万有引力」、あるいは寺山と親交のあった高取英の「月蝕歌劇団」、全作品上演を標榜する「池の下」、そして最近では昨日アップした宇野亜喜良が関わっている「ProjectNyx」、復活した怪優・野口和美の「青蛾館」などがある。それぞれがそれぞでの個性で持って寺山修司の作品を上演している。

このA・T・P-Tokyoはどんなであろうか?今回の「邪宗門」について感じたのは、「邪宗門」というテキストはあるものの寺山修司の戯曲や彼が残した映画などから触発されたイメージのショーケースといった印象だった。というのも、「邪宗門」の持っている権力的装置の役割を与えられた黒子の存在とか、寺山お馴染みの母子関係の葛藤、思春期における性的関心の高まりなどのテーマは、勿論、芝居として演じられていてもテーマ自身には深く入り込まずイメージが優先しているようなのであったからだ。それは2年前に同じ劇場で見た月蝕歌劇団が上演した「邪宗門」でも同じような感想を持った記憶がある。演出の高野美由紀が月蝕歌劇団の出身ということと遠からず影響があるのだろうか?

A・T・P-Tokyoのお芝居は、先行するものからの引用が多いのが特徴だろう。たとえば前回公演の「田園に死す」、こちらは寺山の映画「田園に死す」をお芝居へと変換したものであったし、今回の「邪宗門」も最後に舞台が崩壊するところ(鳥居が倒れるところなど)が、先に触れた月蝕歌劇団のそれと同じであった。だから見ていて、寺山のテキストをもとにそれを解体し乗り越えてやろうというものではないのだろうと感じるのだ。むしろ今は亡き寺山修司を追体験するというか、彼との時間を擬似的に共有したいと望んでいるかのようなのだ。舞台では寺山が生きていた当時のシィザーの音楽がガンガン流れる。あの呪術的なロックを背景に舞台の上で寺山修司の世界を作り上げたい、そんな想いを感じるのだ。見ているボクの方はシィザーの音楽が流れ嬉しくなるのだが、見方を変えればシィザーの音楽は何十年も前のもので、相当古くはたして今の時代の感性に合っているかとなると別の話になるわけだが。

語弊があって勘違いしてとられてしまうと困ってしまう(真剣に取り組んでいる劇団員にふざけんじゃないと思われてしまうと困るのだが)が、A・T・P-Tokyoはいい意味で<寺山修司ごっこ>をしているのではないだろうか。ごっこは、たとえばリアルタイムではない。ごっこは、たとえば模倣なのである。ごっこは時に学びなのである。だから、ごっこの精度を上げるためには<昔の鬼>を仲間に入れなくてはならないのだ。昔の鬼である昭和精吾がゲスト出演?して、あの独特の語りを聞かせてくれたのはラッキーだった。劇中で聞くことなんてもうないのかも知れない。ボクは知らない寺山修司…、初めて生で聞く昭和精吾の語りなのであった。

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