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飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

僕は知らない寺山修司NO.215⇒劇団「廻天百眼」公演「奴婢訓」を見た

2013-08-26 | 寺山修司

■日時:2013年8月24日(土)、14:00〜
■劇場:ザムザ阿佐ヶ谷
■脚本:寺山修司  
■演出:石井飛鳥
■出演:紅日毬子、桜井咲黒、金原沙亜弥、十三月紅夜、他

 

この劇団の芝居を見るのは2回目となる。前に見たのが丸尾末広・原作の「少女椿」なのでかなり傾向は偏っていると言える?と思うも、今回の上演作品はなんと寺山修司の「奴婢訓」ときた。この2作品の選択だけみても相当な通好みで、偏っているというより、もはや暗黒の世界の住人だよなと。思いきっているなと感じるのは寺山修司の数ある作品の中で「奴婢訓」を選んだことだ。おそらくは寺山演劇の中では最も完成されている作品の一つで、主人ごっこを繰り返す奴隷たちの世界を異様な装置とともに描いた稀有なものだから。私が京都に住んでいた30年以上前の学生時代の時、まだ天井桟敷は活動していて「奴婢訓」の巡回公演を見に行った先輩が、寺山修司の前衛性もさることながら役者の肉体性について凄かったと興奮しながら語ってくれたことを思い出し、舞台には暴力的な肉体が蔓延っているとその後、万有引力のその舞台を数回見て印象を抱いているから。しかし、今回の舞台に登場する役者らは女性がほとんどであり、そうしたものがどのように変化しているのだろうかと演出に興味が湧く。

 

さて舞台に登場した女性らはゴスロリのにおいを感じさせるブラック・テイストの衣装を纏っていた。それが目には楽しいものの、彼女らが奴隷たちと認識させるにはちょっと不十分だったかもしれないと思った。そもそも寺山修司の戯曲はわかりづらいし、私はこの作品を何回か見ており主人不在のごっこ繰り返してしるのをわかっているが、はたしてはじめて見る観客にはそれが伝わったのだろうかと一抹の不安が残る。なぜなならば、客席の前席に陣取っていたのは、この劇団の持つ空気と一致するゴスロリ風な若き少女たちが多かったため。それは穿った見方で、もしかしたら彼女らにとって寺山修司の演劇は必須のテキストであり充分そんな設定は知っていますよということになっているのかもしれないけれども…。

 

定着しているイメージを打破すべく女優らはがんばっているなと強く感じた。彼女らは胸は開く、下の肌着まで脱ぐと膚まで晒し、さらにはケツに鞭撃たせるなど文字通り体当たり演技で好感もてる(個人的には十三月紅夜がよかった)も、そこまでやるのなら全体としてはゴチャゴチャ感は否めなくもっとクールな視点がそこに入ればさらに良くなるんじゃないかと素人ながらに思ったりする。それに比べ男性の俳優の滑舌が悪いのが目だったのも事実。感情剥きだし絶叫型は女性が多いぶん逆の方が効果あったんじゃないかと邪推する。最後は銃による乱射で終わりかと思えばアンダーグラウンドな主人なりきりメイドカフェ風な展開となり、なるほどそうきたかと。男の客(役者)はお金を払い、死んだと思われた奴隷はヌクッと立ち上がりお金を受け取った女給=奴隷は愛嬌振るまいバイバイの仕草。主人不在の主人探し、主人ごっこの私って誰?の寺山の提示は時代を経て、それも売り物となるさとばかり資本主義の欲望の種と糧となる。が、ホントの終わりはJ.A.シーザーの定番の曲に乗って暗闇にマッチの火を燃え上がらせての自己紹介。時代を超えて継がれていくこのパフォーマンスを考えた寺山修司はやっぱりすごいね。気概が役者の原動力になる?

 

ところで、始まる前から俳優による観客いじりは予感されていたものの、大胆にも客席に水鉄砲と血糊が飛び散った。この辺りは結構派手な観客いじりと認識し、意外と女性の方が軽々とそうした境界線を飛び越えるものかなって。いずれにせよ、ちょっと難点が目立つように書いてしまったものの、それは逆によかったからで、次の展開にさらに期待したいと思いつつ劇場を去った。そのように感じるお芝居は最近はないのでね。ちなみに、寺山修司さん、登場人物の名前に宮沢賢治の作品から取ってきているのでした。

 

現代日本戯曲大系〈11〉
三一書房編集部
三一書房

 

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