新◻️211の20『岡山の今昔』岡山人(20世紀、大原孫三郎)

2020-06-06 09:22:03 | Weblog

211の20『岡山の今昔』岡山人(20世紀、大原孫三郎)

 大原孫三郎(おおはらまごさぶろう、1880~1943)は、郷土が生んだ豪傑の一人といって差支えあるまい。岡山県倉敷村代々の富豪として、また気鋭の事業家として知られていた大原孝四郎の三男として生まれた。大原家は米穀・棉問屋として財をなしていた。農地の経営も手広くやっていて、小作地800町歩(約800ヘクタール)を囲み、これを耕す小作人が2500余名もいたというから、驚きだ。彼の父・孝四郎は商業資本家であるとともに、地主でもあった。

 その幸四郎が、1889年(明治22年)に当時としては世界最新鋭のイギリス式紡績機を輸入して、これを備えた有限会社倉敷紡績所(のちの倉敷紡績・クラボウ)を設立し、初代の社長に就任する。
 それからは、かつては製塩業、転じては綿花やイグサの栽培が盛んであったこの地域は、一躍、繊維産業の町に発展していく。同じ岡山県南部の下村紡績(児島)や玉島紡績(玉島)などとともに、日本有数の繊維産業をなしていく。

 1901年(明治34年)の彼は、クリスチャンになっていた。その案内役をしたのは石井十次であって、1899年(明治32年)10月に孫三郎が初めて石井を訪問して以降、親友となっていたという。その石井の影響が大きかったのであろうか、兼田麗子氏による、「1901年9月22日の日記」の紹介には、こうある。

 「神が生(せい、自分のこと)をこの社会に降(くだ)し賜わって、而(しか)も末子である生を大原家の相続人たらしめられたのは、神が生をして、社会に対し、政治上に対し、何事かをなさしめようとする大いなる御考に依るものものだと信ぜざるを得ない。この神様より生に与えられたる仕事とは生の理想を社会に実行するということである。」(「大原孫三郎ー善意と戦略の経営者」中公新書、2012)

 続いての1906年(明治39年)、父・孝四郎の紡績事業ほかを継ぎ2代目社長になった大原孫四郎であるが、彼は紡績業を営むだけでは満足できなかった。事業を拡大するとともに、新たに銀行業や電力業なども手掛けるようになっていく。

 具体的には、1919年(大正8年)に、倉敷銀行を母体に岡山県内の6つの銀行を合併させ、第一合同銀行を設立する。1920年(大正9年)から1931年(昭和6年)までは不況続きであるが、倉敷紡績は、これにひるまずに操業を続けた。その一因としては、伝統的な和装用途の小幅木綿から、輸出向け広幅綿布や織物産地の新需要に合わせた綿糸の販売に活路をもとめ、これが当たった。

 1926年(大正15年)には、倉敷市に倉敷絹織株式会社を設立する。日本が敗戦に向かって歩み始めた1943年(昭和18年)には、その商号を「倉敷航空化工株式会社」に変更する。


 そうして大資本家の仲間入りをしていく彼であるが、会社経営に当時としては斬新な内容を付加して臨んだ。代表的なのは、広い意味での労働環境の改善を志向し、社内に医師の常駐や託児所の設置を行う。また、初等教育を受けていない社員に向けて、社内に職工教育部や尋常小学校を設立したという。さらに、倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)を設立し、自社の社員、工員ばかりでなく、地域の人々の診療も手掛けていく。

 これらの出費は相当にかさんだが、反対する重役たちに「わしの頭は10年先が見える」と言って押し切っていたというから、驚きだ。

 「温情という精神的なものだけでは労働問題は解決しない。労働の科学的な究明による数的理論を基礎にして労働者の真の福祉の向上をはか」(藤田勉二「大原孫三郎氏」高橋彌次郎編「日本経済を育てた人々」関西経済連合会、1995)らなければ、という思い。

 この持論を敷衍(ふえん)しての一説には、自らをして、労働者から搾り上げての儲けだけの資本家人生にだけはしたくなかったのかもしれない。

 そればかりではない。他の資本家とはかなり違っての有名なところでは、紡績業などで得た莫大な富を使って、文化事業にも精出す。その典型に、大原美術館の設立があった。その様式建築の斬新さとともに、集められた作品の数々からは、彼の意を受けて開館の基礎となる西洋絵画の収集に力を注いだ洋画家・児島虎次郎とともに、「人々に一流のものを見せたい」との思いが伝わってくるような気がする。
 そのほかにも、大原農業研究所(農研、1914年(大正3年))、大原社会問題研究所、それに倉敷労働科学研究所の三つの研究所を立ち上げる。社研と労研には貧困をなくす役割を、農研には農学への貢献を期待したという。

 まずは、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学農業生物研究所)の設立にあっては、その運営のために200町歩を拠出したという。幼い頃から、自分の家に出入りする小作人に対しての真摯な態度を培ってきたのを、彷彿とさせる出来事でもあろう。

 これらを評して、「当時の孫三郎は、単なる慈善事業には批判的で、防貧を理想とし、また労働者の過酷な労働条件の改善を心から願っていた」(阿部武司「大原孫三郎、百年先を見通す慧眼、いまに伝えるこころ、」帝国データバンク資料館だより「ミューズ」2019.7)というのも、彼ならではの取り組みかたであった。

 

(続く)

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