◻️211の19『岡山の今昔』岡山人(20世紀、竹久夢二)

2020-03-14 15:22:57 | Weblog

211の19『岡山の今昔』岡山人(20世紀、竹久夢二)

    竹久夢二(1884~1934、本名は茂次郎)は、この当時の岡山県邑久郡本庄村(現在の瀬戸市)に生まれる。この地で竹久は、17歳で京都に出るまでの、多感な時期を過ごす。長じては、最初は色々な仕事を渡り歩くが、やがて自分の道を見出していく。大正ロマンを代表する抒情派の画家にして詩人だけでなく、雑誌の挿絵から服のデザインなども手掛ける、現代流にいうとイラストレーター・デザイナーのような多彩な仕事ぶりであった。
 その中でも最大眼目としての絵は、明治末から大正期にかけて多数を雑誌や画集に発表した。これらはまぎれもなく大衆の心をとらえるのだが、画壇の反応は概して冷たかったという。たぶん、その才能は認められつつも、あれこれの既存の画風に馴染まない、奇抜というか、誰からの教わりものでないモダンさというか、それらの大方が時代の相当先を行っていたことによるのではないか。
 わけても美人画は、「竹久流」としてしか表現できない程に当時としては斬新で、物憂い表情のようではある。しかし、それでいて弱々しい人物像というのでもない、観る者の目に過去のしがらみに囚われない女性のように写ってくるから不思議である。おそらくは、その表情からしみ出てくるかのように感じられる、ある種の希望こそが、「大正デモクラシー」の中で新しい生き方を求めていた男女に受け入れられたであろうことは、想像に難くない。

(続く)

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


◻️211の18『岡山の今昔』岡山人(20世紀、森近運平)

2020-03-14 15:14:13 | Weblog

211の18『岡山の今昔』岡山人(20世紀、森近運平)

 岡山が生んだ社会進歩の先覚者に、森近運平(1881~1911)がいる。当時の後月郡高屋村(現在の井原市高屋町)の生まれ。鴨方の生石高等小学校の後、帰郷して農業に従事。その後、勉学を志し、岡山県農事学校と岡山農学校へと進む。優秀な成績であったという。1901年(明治35年)には、県庁へ入って主に農政を担当する。
 その間に社会のありかたに疑問を感じるようになっていく。1906年(明治39年)には、日本社会党の結成に参加し、評議員、幹事となる。翌年になると、「日刊平民新聞」の発刊に参加するのだが、当局の弾圧により発行停止処分となる。党の方も、運動方針をめぐり折り合いがつかなかった。直接行動派(幸徳秋水ら)が議会政策派(片山潜ら)したところへ堺利彦が併用案を出して繕おうとしたものの、政府は結党を禁じた。平民新聞も廃刊となった。
 それでも、怯まない。6月、大坂の宮武外骨らの援助で「大坂平民新聞」の発刊にこぎつける。森近は、その創刊号に「賃金の話・上」を掲載するのであった。彼らは、近畿での労働運動の発展に力を尽くす。多忙の中、相当に勉強したのであろう、11月には「社会主義要綱」を堺利彦との共著であらわす。しかし、1908年(明治41年)、「農民の目ざまし」と題した同新聞付録が秩序攪乱の名によって森近は逮捕され、新聞は休刊となり、当局(第二次桂内閣)の弾圧が強まる中、同新聞も廃刊に追い込まれる。
 1909年(明治42年)、森近は岡山県高屋村の故郷に戻り、温室に着目した農業を営み、地域の農業指導から産業組合の育成に至るまで、地域人として暮らす。1910年(明治43年)からは、全国で無政府主義者、社会主義者への弾圧がエスカレートしていく。5月に長野県で大量検挙があった後、6月には明治天皇に対する暗殺計画があるとして、全国で逮捕者が出る。これを「大逆事件」という。この事件は、後に、実は実在しない「爆発物取締法違反」の容疑をかぶせることで国民の目をそらし、社会の批判勢力を一掃しようとする山形有朋(やまがたありとも、当時の政界の黒幕)や平沼騏(き)一郎大審院(当時の最高裁)検事の合作であったことが明らかとなっている。
 かねてから直接行動派から距離をおき、身に覚えのない森近もこの事件の容疑者として逮捕された。かつて天皇紀元の非歴史性をもらしたことが嫌疑となった。12月10日、大審院で公判が始まり、被告26人に死刑、2人に無期懲役が求刑される。翌1911年(明治44年)1月には、判決が下り、森近を含む24人に死刑が言い渡されるも、その翌日には、そのうち12人を無期懲役に変更した。森近には減刑がならず、その6日後に死刑が執行される。堺利彦らが、処刑者を引き取った。
 そんな森近の最後に遺したものとしては、その刑の直前に書き始めた「回顧三十年」(娘あて)は、行方がつまびらかでないのであろうか。僅かに、堺利彦の差し入れた本の裏表紙に、彼が爪で書いたという「父上は怒り玉ひぬ、我は泣きぬ、さめて恋しい故郷の夢」との句が、その時の心情を今に伝える。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆