812『自然と人間の歴史世界篇』アメリカの金融資本(1995~1999)
経済学者の伊東光晴氏は、1995年のアメリカの金融の姿に関連づけて、こう述べておられる。
「1995年6月の先進国首脳会議(ハリファスク・サミット)において、カナダの外務大臣ウェレットが議案の一つとして提案しようとした外国為替取引税は、1978年に経済学者のジェイムズ・トービンが提案したもので、世界の為替取引市場における投機抑制のため取引額の0.02%を課税しようとするものでした。
これを国連ベースで浅く広く課税し、税収を国連活動に使うという案であり、フランスのミッテラン大統領が賛成しましたが、それ以上の話にはなりませんでした。
この税の「味噌」は、「投機資金はわずかな証拠金で多額の資金を動かすために、わずかな税率をかけられても、その動きが抑えられ、リアルな設備投資そのほかを行おうという長期資金は、この僅かな税率であったならば、その動きは抑えられることがない、という考えである」と。(伊東光晴「「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)
これに一番反対の気持ちを抱いたのは、5大投資銀行を抱え、ITバブル崩壊(IT関連株の暴落)の後は金融業に産業の軸足・ウエイトを移してきていたアメリカそのものであった。
これより先、1992年のアメリカの貿易赤字の半分以上の494億ドルが日本への赤字で占められていた。日本からの輸入の増加で国内の製造業、特に自動車と自動車部品、半導体は大いなる苦戦を強いられていた。
1993年4月、1月の就任から3か月後のクリントン大統領は、ワシントンで日本の宮沢首相と米日首脳会談を行い、日米経済摩擦を巡る問題で包括協議機関の設置を合意した。会議を終わった両首脳は、共同記者会見に臨んだ。宮沢首相がアメリカからの「脅し」(threat)があったことを窺わせる会見をしたのに対し、クリントンは次の4つのことを日本に要求する腹づもりであることを明らかにした。
①として、円高。②として、日本の景気刺激策。③として、アメリカの製造業の生産性の大幅上昇が必要。④として、分野別の交渉をすること。
1995年4月19日、ドルの対円相場が1ドル=79円75銭を付け、日本からはこれ以上の円高は困る、米国債を売らざるを得なくなる、と泣きつかれる。
また、国内の産業振興政策としてのドル安誘導にもかかわらずアメリカの自動車産業などにさほどの活性化が見られなくなっていたことなどがあり、それまでの政府による製造業立て直しの試みには暗雲が垂れ込めていた。
このようなとき、1995年投資銀行の一つゴールドマン・サックス会長を歴任したルービンが、第二期クリントン政権の財務長官に迎えられる。彼はこの後1999年に任期を終えるまで、市場をドル高に誘導し、そのことで世界中の資金がアメリカに集まり、アメリカの投資銀行はそれらの多国籍資金を元手に多様な金融商品に仕立て上げ、資金を提供してくれた全世界に売りさばく、ということをしていった。
当時の新聞記事から、紹介しておこう。
○The Wall Street Journal,April26,1995
”G-7 Officials Back Reversal Of Dollar's Fall
”WASHINGTON-Top economic officials from the Group of Seven in deistial nation declared that an ordely reversal if the dolllars decline and the yenns rise is desiraable because exchange-market rates have gone beyand the levels justified by underlying economic conditions. ”
ここで「an ordely reversal」というのは、「秩序ある反転」ということだ。
もう一つ、取り上げよう。
○The Washington Post,February 8,1997
”The Rubin Signals Shift to Club Dollar's Rise After months of applauding as the dollar soared in value against foreigh currences,Treasury Secretary Robert E.Rubin yesterday
signaled a shift in U.S policy by suggesting that Washington wants to brake rhe dollar's ascent.(中略)
The dollar tumbled in response to Rubin's remarks. That is a welcome
development for many manufacturers (中略)especially in rhe auto industry (中略)who have voiced mounting dismay over over the dollar's
strength,because a higher dollar makes U.S.-made goods more expensive
compared with foreign-made products.
On the other hand,a lower dollar could raise prices of imported goods for cussumers and make overseas travel more ckstly for America. ”
こうしたアメリカ政府とアメリカの金融資本によるドル高誘導は世界的な貨幣資本過剰の中で業績を上げていく。
1996年8月には対円でのドル高が軌道にのり、96年末にはそのピッチが早まりました。そして1997年はじめになると、1ドルが120円を突破する。
1997年2月8日、ベルリンで開催された先進国財務大臣・中央銀行総裁会議において、ルービン財務長官が急速なドル高の進行に警戒を表明、しかしアメリカ金融業とアメリカ財政に利点の多いドル高そのものについては維持する方針を貫く。
そのことにより、アメリカ経済は世紀末の活況を取り戻し、その熱狂の渦の中でニューヨークのダウ平均株価は1999年3月には10000ドルを突破した。
(続く)
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