♦️648『自然と人間の歴史・世界篇』インドの食糧危機(1960年代)

2018-07-05 22:23:01 | Weblog

648『自然と人間の歴史・世界篇』インドの食糧危機(1960年代)

 経済学者の宮崎義一は、インドに飢餓の時代があったことを、こう記しておられる。
 「政治の昂奮からさめたとき、"第三世界〟をおそってきたのは、"世紀の飢餓〟である。とくに、インドでは現に食糧難が深刻で、「2年つづきの干ばつによって1億人が飢餓にさらされている」という。インドは、独立後3次にわたる5カ年計画で430億ドルの投資を行ったにもかかわらず、いまだに人々は1日300グラムの穀物の配給のために長い行列をし、数百万の農業労働者は2日に一度チャパティとよばれる薄くのばしたパンを口に入れるだけである。
 とくに1966年、ビハール州では史上最悪の干ばつに見舞われ、村全体が飢餓線上をさまよい地獄さながらの悲惨な状態にある。それが契機となって、1966年はじめ頃からインド語で"バンタ〟といわれる抗議集会、食糧デモ、一斉閉店、ストライキや暴動が各地で頻発し、6月~8月にはその頂点に達した。そしてごく最近(1967年4月18日)、ついにインドのビハール州で、独立以来はじめての"飢餓宣言〟が出た。」(宮崎義一「現代の資本主義」岩波新書、1967、172ページ)

(続く)

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♦️425『自然と人間の歴史・世界篇』ガンディーの政教分離

2018-07-05 22:11:27 | Weblog

425『自然と人間の歴史・世界篇』ガンディーの政教分離

 インド独立の指導者ガンディーは、独立インドの宗教に対する態度について、はっきりした政教分離をもっていて、また自らが奉じるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の融和を説いていました。彼は、こう言っている。
 「独立インドは、ヒンドゥー教徒の統治になりません。多数派の宗派や集団ではなく、宗教とは無関係に全国民から選ばれた代表者たちによる、インド人の統治になります。」(1942年8月9日付け「ハリジャン紙」に掲載されました。マハート・ガンディー著・鳥居千代香訳「ガンディーの言葉」岩波ジュニア新書、2011、178ページ)に所収。
 また、いう。
「国家は例外なく非宗教的でなければなりません。そうすれば、すべての国民は、法律のもとで平等になります。しかし、どの人もコモンローを破らないかぎり、どんな邪魔や妨害も受けることなく、自由に宗教をもとめることができます。
 アッラーでもなく、フダーでもなく、ゴッドでもなく、真理と言う名で呼びます。
 私には真理のことが神であり、真理は私たちのどんな計画より重要です。すべての真理は、その偉大な力、真理のみこころのうちに具体的にあらわれます。
 私は子供のときから、真理は近づくことのできないもの、到達できないものと教えられました。また、あるすばらしいイギリス人には、神は人間の理解の及ばぬものと信じるようにと教わりました。しかし、神は理解できるものなのです。
 ただし、それは私たち人間の、限りある知力が許す範囲内においてですが。」(1947年4月20日付け「ハリジャン紙」に掲載されました。マハート・ガンディー著・鳥居千代香訳「ガンディーの言葉」岩波ジュニア新書、2011、178ページ)に所収。
 さらに、こう加える。
 「神は、私たちのやり方ではなく、神自身のやり方で私たちの祈りに応えてくれます。神は人間とは違った方法をとられるので、私たちには計り知ることができません。祈りの前提には信仰があります。祈りは無駄にはなりません。他の行動と同じです。私たちの目に見える形とはかぎりませんが、実を結びます。心からの祈りは、行動などよりはるかに強い力を持つのです。」(1946年6月29日付け「ハリジャン紙」に掲載されました。マハート・ガンディー著・鳥居千代香訳「ガンディーの言葉」岩波ジュニア新書、2011、178ページ)に所収。

(続く)

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♦️812『自然と人間の歴史世界篇』アメリカの金融資本(1995~1999)

2018-07-05 14:44:34 | Weblog

812『自然と人間の歴史世界篇』アメリカの金融資本(1995~1999)

 経済学者の伊東光晴氏は、1995年のアメリカの金融の姿に関連づけて、こう述べておられる。
 「1995年6月の先進国首脳会議(ハリファスク・サミット)において、カナダの外務大臣ウェレットが議案の一つとして提案しようとした外国為替取引税は、1978年に経済学者のジェイムズ・トービンが提案したもので、世界の為替取引市場における投機抑制のため取引額の0.02%を課税しようとするものでした。
これを国連ベースで浅く広く課税し、税収を国連活動に使うという案であり、フランスのミッテラン大統領が賛成しましたが、それ以上の話にはなりませんでした。
この税の「味噌」は、「投機資金はわずかな証拠金で多額の資金を動かすために、わずかな税率をかけられても、その動きが抑えられ、リアルな設備投資そのほかを行おうという長期資金は、この僅かな税率であったならば、その動きは抑えられることがない、という考えである」と。(伊東光晴「「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)
 これに一番反対の気持ちを抱いたのは、5大投資銀行を抱え、ITバブル崩壊(IT関連株の暴落)の後は金融業に産業の軸足・ウエイトを移してきていたアメリカそのものであった。
 これより先、1992年のアメリカの貿易赤字の半分以上の494億ドルが日本への赤字で占められていた。日本からの輸入の増加で国内の製造業、特に自動車と自動車部品、半導体は大いなる苦戦を強いられていた。
 1993年4月、1月の就任から3か月後のクリントン大統領は、ワシントンで日本の宮沢首相と米日首脳会談を行い、日米経済摩擦を巡る問題で包括協議機関の設置を合意した。会議を終わった両首脳は、共同記者会見に臨んだ。宮沢首相がアメリカからの「脅し」(threat)があったことを窺わせる会見をしたのに対し、クリントンは次の4つのことを日本に要求する腹づもりであることを明らかにした。
 ①として、円高。②として、日本の景気刺激策。③として、アメリカの製造業の生産性の大幅上昇が必要。④として、分野別の交渉をすること。
 1995年4月19日、ドルの対円相場が1ドル=79円75銭を付け、日本からはこれ以上の円高は困る、米国債を売らざるを得なくなる、と泣きつかれる。
 また、国内の産業振興政策としてのドル安誘導にもかかわらずアメリカの自動車産業などにさほどの活性化が見られなくなっていたことなどがあり、それまでの政府による製造業立て直しの試みには暗雲が垂れ込めていた。
 このようなとき、1995年投資銀行の一つゴールドマン・サックス会長を歴任したルービンが、第二期クリントン政権の財務長官に迎えられる。彼はこの後1999年に任期を終えるまで、市場をドル高に誘導し、そのことで世界中の資金がアメリカに集まり、アメリカの投資銀行はそれらの多国籍資金を元手に多様な金融商品に仕立て上げ、資金を提供してくれた全世界に売りさばく、ということをしていった。
 当時の新聞記事から、紹介しておこう。
○The Wall Street Journal,April26,1995
”G-7 Officials Back Reversal Of Dollar's Fall
”WASHINGTON-Top economic officials from the Group of Seven in deistial nation declared that an ordely reversal if the dolllars decline and the yenns rise is desiraable because exchange-market rates have gone beyand the levels justified by underlying economic conditions. ”
 ここで「an ordely reversal」というのは、「秩序ある反転」ということだ。
 もう一つ、取り上げよう。
○The Washington Post,February 8,1997
”The Rubin Signals Shift to Club Dollar's Rise After months of applauding as the dollar soared in value against foreigh currences,Treasury Secretary Robert E.Rubin yesterday
signaled a shift in U.S policy by suggesting that Washington wants to brake rhe dollar's ascent.(中略)
The dollar tumbled in response to Rubin's remarks. That is a welcome
development for many manufacturers (中略)especially in rhe auto industry (中略)who have voiced mounting dismay over over the dollar's
strength,because a higher dollar makes U.S.-made goods more expensive
compared with foreign-made products.
On the other hand,a lower dollar could raise prices of imported goods for cussumers and make overseas travel more ckstly for America. ”

 こうしたアメリカ政府とアメリカの金融資本によるドル高誘導は世界的な貨幣資本過剰の中で業績を上げていく。
 1996年8月には対円でのドル高が軌道にのり、96年末にはそのピッチが早まりました。そして1997年はじめになると、1ドルが120円を突破する。
 1997年2月8日、ベルリンで開催された先進国財務大臣・中央銀行総裁会議において、ルービン財務長官が急速なドル高の進行に警戒を表明、しかしアメリカ金融業とアメリカ財政に利点の多いドル高そのものについては維持する方針を貫く。
 そのことにより、アメリカ経済は世紀末の活況を取り戻し、その熱狂の渦の中でニューヨークのダウ平均株価は1999年3月には10000ドルを突破した。

(続く)

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♦️607『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカとキューバ(1961)

2018-07-05 14:24:51 | Weblog

607『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカとキューバ(1961)

 1961年、ケネディ大統領(民主党)が発足すると、彼は前任者のアイゼンハワーと統合参謀本部との合作であるキューバ政権転覆計画を引き継いで、ビックス湾での1500人のキューバ人亡命者による侵攻部隊を、グアテマラで極秘裏に訓練するようCIA(中央情報局)に命じた。独立キューバの国家転覆を狙う、かれら武装キューバ人の侵攻を助け、かれらとともにアメリカ軍が空から海から支援する準備を固めていた
 ところが、キューバ軍の前に亡命キューバ人侵攻部隊はあっけなく敗退し、アメリカ軍に直接的な軍事支援を求めるに至る。
 そして迎えた4月18日、ケネディと副大統領のョンソン、そして国務長官のテセーィーン・ラスクは、統合参謀本部の軍人たちやCIAを呼んで対策会議をもつ。
 そこで、軍関係者は強引にキューバ派兵を主張した。だが、ケネディは「空爆を実施すればアメリカの民主国家としての対外イメージに傷がつき、またソ連の西ドイツ攻撃を招きかねない」と考え、かれらの破天荒な要求を受け入れなかった。
 このようにして、キューバ侵攻を企てた側は、最終的に114が死亡、1189人が捕虜となって、さしもの計画も水泡に帰したのであった。ケネディは、この計画の失敗を認めざるをえなかったものの、共産主義勢力との戦いに邁進することを主張してはばからなかった。今日では、キューバ危機が起こる前に、このような下地が形成されていたことを指摘する歴史家は少ない。

(続く)

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♦️204『自然と人間の歴史・世界篇』資本の本源的蓄積(イギリス)

2018-07-05 09:43:10 | Weblog

204『自然と人間の歴史・世界篇』資本の本源的蓄積(イギリス)

 資本制(資本主義的生産様式)にいたるには、マルクスによって「本源的蓄積」となづけられる前段の歴史的過程があった。それは、封建制の中で培われていった。その創造劇だが、期間でいうと、数世紀にも跨る。ここではまず、イギリスを舞台にそのことがどういう段階を遂げていったかを俯瞰したい。
 まず封建社会の経済構造の中核をなすものは農民であって、14世紀終わり頃のイギリス農村での彼らは、農奴制から最終的な離脱の時期を迎えていた。15世紀に入ると、イギリス農村人口の大多数は自由な自由農民(「独立自由農民」という)に成り代わっていた。もっとも、社会の上部構造としては封建領主の権力があり、その下に家臣団がおり、さらにその下に家臣団の数に相応の農民たちがいて、上にいる非労働階級を支えていたのである。
 労働者という階級(彼らは「プロレタリアート」とも言い慣わされる)の創出を引き起こす農村変革の序曲は、15世紀の最後の3分の1期及び16世紀の最初の20~30年にかてけ起こった。一つは、15世紀の60~70年代から16世紀初めにかけて封建家臣団の中からこぼれ落ちるものたちが出てくる。これを、「封建家臣団の解体」と呼ぶ。これを促したのは、絶対権力の確立を目指す王権であった。
 二つは、羊毛マニュファクチュア(工場制手工業)の台頭により、これを営む封建貴族たちが農民の共同地を奪っていく。その背景には、フランドル地方を中心とする毛織物工業の繁栄による羊毛価格の騰貴があった。これに刺激された地主(ランドロード)たちが、王権や議会と頑強に対立して、それぞれの農地に領主と並ぶ封建的権利を有していた農民から暴力的にそれらの土地を奪い、また共同地を橫奪することにも血道をあげるのであった。後者の性格については、農民たちの養う家畜の放牧場であるとともに、彼らに燃料たる薪や泥炭などをも提供したものだ。
 この頃のイギリスに、こんな逸話が伝わる。政治家であり、また文筆家であったトーマス・モア(モーア)(1478~1535、後に王朝の高級官吏となるも、ヘンリ8世の離婚問題に端を発し、ローマ教皇側に配慮し王に従わなかった罪で死刑に処せられる)は、この模様をみて、著書の中で「イギリスの羊です。以前は大変おとなしい、小食の動物だったそうですが、この頃では、なんでも途方もない大食いで、そのうえ荒々しくなったそうで、そのため人間さえもさかんに喰い殺しているとのことです」(トーマス・モア著、平井正穂訳「ユートピア」岩波文庫、1956)と比喩するのであった。その後で、モアはこう続ける。
 「おかげで、国内いたるところの田地も家屋も都会も、みな喰い潰されて、見るもむざんな荒廃ぶりです。もし国内のどこかで非常に良質の、したがって高価な羊毛がとれるというところがありますと、代々の祖先や前任者の懐にはいっていた年収や所得では満足できず、また悠々と安楽な生活を送ることにも満足できない。
 その土地の貴族や紳士や、その上自他ともに許した聖職者である修道院長までが、国家の為になるどころか、とんでもない大きな害悪を及ぼすのもかまわないで、百姓たちの耕作地をとりあげてしまい、牧場としてすっかり囲ってしまうからです。」(同)
 こうした「牧羊囲い込み運動」は、もちろんのこと「美しくもめずらしい物語」などではなく、イギリスにおいて、16世紀になっても延々と続く。それというのも、ヘンリー7世による1489年の条例以来ほぼ150年に及ぶこ囲い込み禁止令の発布も、この動きの前では無力にされていったのだから。
 二つ目の過程は、16世紀における宗教改革からは、イギリスにおける旧教会領(土地)の相当部分が没収されていく。そこに居住していた者(いわゆる「世襲的小作人」)たちは、かかる土地から追い出され、無産労働大衆(プロレタリアート)の中に投げ出される。旧教会領は、王の寵臣や有力貴族、投機的な生活をあわせもつ借地農業者や都市ブルジョアジーの面々であった。さらに、教会の10分の1税の分配にあづかっていた貧しい農民たちも、かかる土地収奪の過程で蹴散らされ、はじき出されていった。
 こうした事態にもかかわらず、17世紀の最後の数十年間にはまだ、独立自営農民の数は、彼らに置き換わった借地農業者の数を少し上まわっていたのではないか。クロムウェルがその権力掌握に当たって最大の拠り所にしていたのは、その独立自営農民であったし、農村にみられた賃金労働者の中にも、共同地の共有者の地位を保ち続ける者も相当数いたのではないか。
 だが、こうしたイギリス農村の土地所有にみるまだら模様も、18世紀の最後の数十年間に、農村に残っていた共有地のほぼ全体が奪われていく。これに力のあったのが、名誉革命によるスチュアート王朝復興のさいの、法律による封建的な土地所有制度の廃止であった。国有地になった土地の相当部分は、ウィリアム3世と彼に従う地主や資本家たちが牛耳るものとなっていく。
 これら両者を関連づけていうならば、彼らは国有地を合法的に横領するとともに、その同じ国家権力によって、古代ゲルマン的な土地制度に淵源をもつであろう共同地をも没収することに成功したのである。すべからくこの過程は、一方において農民や農村部民を工業プロレタりアートとして土地から遊離するとともに、他方では資本借地農場とか商人借地農場とと呼ばれる大借地農場を展開させるのである、

(続く)

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♦️210『自然と人間の歴史・世界篇』資本主義的再生産方式

2018-07-05 09:39:19 | Weblog

210『自然と人間の歴史・世界篇』資本主義的再生産方式

 マルクスによる資本主義の再生産表式というものがあって、「資本主義というのはどんなものか」と問われた時、これを相手に示すだけで一応の理解を得てもらえるだろう。その理屈は、次の通りだ。
 まずは、社会の総生産物は、極々大まかには二つの部類に分かれる。それは、第Ⅰ部門としての、Ⅰ:生産手段生産部門、すなわち生産的消費に入るべき、または入りうる形態をもつ諸商品の生産部門と、第Ⅱ部門としての、Ⅱ:消費手段生産部門、すなわち資本家階級と労働者階級の個人的消費に入る形態をもつ諸商品を生産する部門とに集約される。
 ここで可変資本とは、価値から見れば、労賃の総額で、素材から見れば、この資本価値によって運動させられる「生きた労働」からなりたっている。
 また、不変資本とは、生産に充用されるいっさいの生産手段の価値、具体的には、固定資本(機械、労働用具、建物、役畜等々)と流動不変資本(原料、部品、半製品など)に分かれる。ここでの固定資本の価値は、1年限りで全部が消耗してしまうものと仮定している。真実なり本質なりを突き止めるには、科学的思考においては、しばしば現実の有り様を単純化してモデル化を行う。
 ここで単純再生産というのは、社会的総生産において蓄積がない場合を想定するものだ。。期間は1年としよう。表式は労働価値説の上に成り立っていて、表式の単位は価値(社会的労働単位)である。生産で生み出された剰余分はm(剰余価値)プラスv(可変資本)となっている。
 同じことながら、資本家が労働者を雇って得た利潤は、資本家の取り分mと労働者の賃金に充てられるvとに分かれる。また、資本家が得た生産の剰余分は資本家個人の消費に回る分と、再投資される分とに分かれる。それから、両者の比としての剰余価値率m/vを100%と仮定しよう。加えるに、cは不変資本、言い換えると「死んだ労働」ということになります。
 ここで奢侈品については、ほぼ資本家や地主などの富裕層に限定された消費手段であって、賃金財ではないだろうから、マルクスは、後に、第Ⅱ部門としての消費手段生産の亜部類として、考察するようになっていく。この観点から表式を書き直したのがマルクス後の経済学者カレツキで、彼は資本家向けの消費手段生産部門Ⅱを賃金財生産部門Ⅲと区別した。
(社会的総資本が単純再生産となっている場合におけるその再生産の仕組み)
 Ⅰ 1年間の生産手段の生産
   資本の段階・・・・・・・・4000c+1000v=5000
商品生産物の段階・・・・・4000c+1000v+1000m=6000:(Ⅰ式)

Ⅱ 1年間の消費手段の生産
   資本の段階・・・・・・・2000c+500v=2500
商品生産物の段階・・・・2000c+500v+500m=3000:(Ⅱ式)
 まず、このⅡ式において、第Ⅱ部門の労働者の賃金(可変資本500v)と資本家の収入(剰余価値500m)は、この部類の生産物である消費手段に支出されなければならない。これにより第Ⅱ部門の消費手段2000と交換されることになり、かれらの消費によって消えるだろう。
 次に、第Ⅰ部門の剰余価値1000mと労賃1000vも、第Ⅱ部門が生産した消費手段に支出されなければならない。この消費手段は、第Ⅱ部門の生産物価値3000のうち2000だけの分から購入されえる。これと交換するべく、第2部門は1000mプラス労賃1000vイコール2000だけの生産手段を第Ⅰ部門の6000Cのうちから調達することになるだろう。
 さらに、第Ⅰ部門の6000Cのうち、4000Cは第Ⅰ部門のみで使う生産手段ということだから、同部門の内部で消耗された不変資本の補充(拡大ではなく)に使用されねばなるまい。その交換は、第Ⅰ部門の資本家相互のあいだで行われるだろう。
 以上の三大取引の結果、この種の社会的総生産のバランス式は次の二つの式に書き表すことができる。

4000c+1000v+1000m=Ⅰ4000c+Ⅱ2000c:(詳細Ⅰ式)
2000c+500v+500m=Ⅰ(1000v+1000m)+Ⅱ(500v+500m):(詳細Ⅱ式)
 なお、単純再生産のもう少し詳しい解説については、色々文献があろうが、ここでは、さしあたり、宮本義男氏の『資本論入門(上中下)』紀伊国屋新書、1967年刊行のうち、中巻を推奨したい。

(社会的総資本が拡大再生産となっている場合におけるその再生産の仕組み)
 Ⅰ 1年間の生産手段の生産(出発式)
   資本の段階・・・・・・・・4000c+1000v=5000
商品生産物の段階・・・・・4000c+1000v+1000m=6000:(Ⅰ式)

Ⅱ 1年間の消費手段の生産(出発式)
   資本の段階・・・・・・・1500c+750v=2250
商品生産物の段階・・・・1500c+750v+750m=3000:(Ⅱ式)

 より詳しくは、次のとおりとなるだろう。
商品生産物の段階・・・・・【4000c+1000v+500m】+400m(c)+1000m(v)=6000:(Ⅰ式)

商品生産物の段階・・・・・【1500c+750v+600m】+100m(c)+50m(v)=3000:(Ⅱ式)

 ただし、【】内は単純再生産の運動法則が当てはまっている部分だ。蓄積向けの500mは原資本の有機的構成である4:1を受けて、400cと100vとに分割されている。
 第Ⅰ部門の100vは、第Ⅱ部門の消費手段と交換されます。第Ⅰ部門の100vと交換される第Ⅱ部門の消費手段だが、第Ⅱ部門の750m分の剰余価値から与えられる。これで、第Ⅱ部門は第Ⅱ部門の剰余価値から100m分だけ生産手段を入手することが可能となる。
 あわせて、第Ⅱ部門の750mー100m=650mの中から、第Ⅱ部門の50vが割り振られることになるだろう。それは、第Ⅱ部門における追加可変資本を示している。以上により、第Ⅱ部門の剰余価値は600mとなるだろう。
 第Ⅱ部門の資本家は、この追加可変資本を賃金として同部門の追加労働者に支払う。その追加労働者は同じ賃金を得て、第Ⅱ部門の資本家からその分の消費手段を購入する。その結果、追加可変資本の第Ⅱ部門50m(v)分は、再び第Ⅱ部門の資本家の手に環流している。
 以上の「拡大された規模での再生産のための出発表式」における社会的取引が終了したときには、社会的総生産は次のようになっている。出発年度の総生産の全体(Ⅰ部門と第Ⅱ部門の生産物の合計)9000より800価値分だけ増加した9800になっている。

商品生産物の段階・・・・・4400c+1100v+1100m=6600:(Ⅰ式の第一次の発展式)
商品生産物の段階・・・・・1600c+800v+800m=3200:(Ⅱ式の第一次の発展式)
 これが、第二年度目の蓄積の出発点になる。
 これにみられるようなマルクスが考案した再生産方式は、当時としては、随分と斬新なものであったろう。それというのも、「経済学の父」とよばれるアダム・スミスの経済学の段階では、ケネー以来の農業を全産業の出発点とする再生産モデルからの脱皮は、まだなされていなかった。 
 また、スミスの流動資本の概念は曖昧であった。マルクスは、これを批判し、生産資本の一部としての流動資本と商品資本とを区別する。
 さらに、スミスにおいては、明らかになっていなかった固定資本や原材料の価値を、この再生産方式で明確に商品価格の構成部分として位置づけるのに成功する。
 こうした工夫により、マルクスは、ケネーの経済表を、商品一般の次元で再現してみせた。この意味で、スミスはケネーの経済表のマルクス的発展としての、上記の再生産方式への発展を媒介する役割を果たしたのだ。

(続く)

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