♦️810『自然と人間の歴史・世界篇』アジア通貨危機(韓国での通貨危機の原因)

2018-07-08 22:19:54 | Weblog

810『自然と人間の歴史・世界篇』アジア通貨危機(韓国での通貨危機の原因) 

 韓国にとって1997年~98年経済危機の背景は何だったのでしょうか。まず、輸出が伸び悩むようになりました。韓国では生産構造の高度化に伴って日本との輸出品目構成が似通っていたことがあります。
 労働集約型の産業編成から資本・知識集約型の資本編成への移行が遅れていました。円安が進行するにつれて、製品差別化優位を持たない業種では為替変動の影響をもろに受けました。主要品目である半導体の輸出が世界的な市場の低迷により悪化しました。DRAM(読み書きが自由にできる半導体メモリー)などの市況が悪化しました。為替要因を差し引いた裸の競争力が停滞していたのです。
 一方、東南アジアには中国などの手強い競争相手が台頭してきて、この面からも輸出競争力が低下しました。ASEAN(東南アジア諸国連合)諸国の通貨の減価が進んだために韓国の輸出競争力が落ちていったのです。
 二番目の背景として、金融システム問題があります。①バブル崩壊による不動産市場の過剰投資、供給過剰。不動産バブルは財閥系の海外不動産買い占めにも波及していました。②急激な金融自由化とそれに見合ったディスクロージャー、健全経営規制、セーフティネットなどの制度の未整備が挙げられます。
 ③政治的な圧力や同族経営の足枷で対応が遅れたことがあります。これらが金融機関や企業や野放しの拡大を助長し、そのため為替リスクをヘッジしていない外貨資金や不安定な短期資金の調達を拡大させた。そのために為替変動や外国投資家の資金移動に対して脆弱な資金調達構造をもたらしました。これが三番目の背景、つまり国全体として経常収支赤字のファイナンス問題を深刻化させました。
 これらのうち②は、負債総額や対外資産内容に対する懸念を生み出しました。そしてこれらの奥にあった最も根本的な背景、それは資本主義のシステムに由来する過剰投資が顕在化したということができるでしょう。
 では、財閥はなぜ過剰投資をやめなかったのでしょうか。金融機関はなぜ財閥(ヂェボル)等への過剰投資が不良債権に転化することを予見できなかったのでしようか。たとえば、金融面では韓国政府は部分的にそのことに気が付いていました。1997年初め、金融改革大統領委員会を設置しました。
 同委員会は金融を調査し、中央銀行と金融監督局の改革が必要である、との提言を政府に提出しました。韓国政府はこれに基づき、1997年8月になって、13の金融改革法案を議会に提出しました。なかでも韓国銀行法改正案と金融監督機関設置法案とはそれが中央銀行の監督権限を弱めるものでした。銀行改革法案は11月3日に不成立となりました。」(拙ホームページ「韓国の政治経済社会の歩み」)

(続く)

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♦️809『自然と人間の歴史・世界篇』アジア通貨危機(韓国での通貨危機対策の実施、1998)

2018-07-08 22:17:56 | Weblog

809『自然と人間の歴史・世界篇』アジア通貨危機(韓国での通貨危機対策の実施、1998)

 明けて1998年の1月1日、金利制限法(金利の上限を規定)を廃止しました。12月18日の大統領選挙で当選したキム・デ・ジュン大統領(第15代)の呼びかけにより、1月15日には「労政使委員会」が発足しました。
 1月13日、IMF(国際通貨基金)のカムドシュ専務理事の「韓国の金融、為替は正常化し、外貨保有高の減少もストップしている」とのメッセージに見られるように、1997年7月頃から始まった通貨危機がひとまず小康状態に入って、それまでの臨界点近くをさまよう状況からひとまず回復しました。
 総じて、韓国においては、経常収支赤字が増すと、見切りをつけた外国資金が資本逃避に走りました。もともと対外債務の中では短期資金が多かったのです。対外債務残高の内訳をGDPで測ると、「その他項目」としての対外借入や証券投資の流入が大半でした。さらに、金融機関の海外現地子会社が変えていた債務が、これらは政府の対外債務統計には計上されませんが、約1200億ドルありました。
 そのような資本流出はウォンの低落を誘い、対外債務負担がまし、脆弱に金融システムは為すすべを知らない。そのため実態経済が悪化し、それでもって海外からの資本流入がさらにやせ細っていく。悪循環の始まりです。この間の韓国の経常収支そのものはさほどではなかったものの、対外信用の低下により金融機関の流動性が低下しました。
 1月28日、国際債権銀行団が韓国内金融機関向け短期債権の繰り延べに合意しました。
翌30日、財政経済院がマーチャント・バンク30行中10行の閉鎖を命令しました。31日には、政府が第一銀行とソウル銀行の二つを国有化しました。
 2月中旬、構造改革関連法案が国会で成立しました。この中には整理解雇制の前倒し導入、財閥系列間相互債務保証の解消等が含まれていました。
 2月17日、IMF理事会が第1回のレビューを実施し、その結果融資が承認されました。4月8日、政府は、国内金融システムの債権、企業の対外債務繰り延べ支援等のための資金を調達するため、グローバル債40億ドルを発行しました。
 5月20日、財政経済院が、50兆ウォン規模の金融システム安定化のための公的資金投入計画を発表しました。同月29日、IMF理事会が第2回のレビューを実施し、その結果融資の継続が承認されました。
 6月18日、金融監督委員会が、市中銀行が中心となって選定した「存続不可能」な55行を公表しました。そして同月29日になった時点で、同委員会として再建不能銀行の処理策を公表しました。
 7月3日、大統領府の企画予算委員会が公企業の民営化策を公表しました。8月28日、IMF理事会が第3回のレビューを実施し、その結果融資が承認されました。
 9月1日、韓国銀行が公定歩合(総限度貸出金利)を年5.0%から3.0%に引き下げるとともに、総限度貸出上限の引き上げ(5.6兆ウォンから7.6兆ウォン)を実視しました。
 9月28日、財政経済院、金融機関の不良債権の買い取り、資本増強及び預金者保護のため、公的資金を9月中21兆ウォン、10-12月に12兆円を投入する計画を発表しました。
 9月30日、韓国銀行がインターバンク・コールレートの誘導目標を年8.0%から7.0%に引き下げる方針であることを発表しました。 
 11月2日、朝興銀行、地方銀行の江原銀行、忠北銀行との合併を表明しました。12月7日、金大中大統領が5大財閥首脳と会談しました。この中で両者は、系列会社数の削減、経営資源を国際競争力を見込める分野に集中すること等を柱とする構造改革を実施することで合意しました。
 12月14日、IMF理事会が第4回のレビューを実施し、その結果融資が承認されました。
 そして迎えた1998年12月31日には、金融監督委員会が、アメリカのニューブリッジ・キャピタルを中心とするコンソーシアムとの間で、98年1月に国有化されていた第一銀行の株式を同コンソーシアムのメンバーに売却することで合意しました。

(続く)

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♦️808『自然と人間の歴史・世界篇』アジア通貨危機(韓国での通貨危機対策の実施、1997)

2018-07-08 22:16:04 | Weblog

808『自然と人間の歴史・世界篇』アジア通貨危機(韓国での通貨危機対策の実施、1997)

 そして迎えた1997年11月21日、韓国政府はIMF(国際通貨基金)に金融支援を要請しました。11月25日、韓国政府は米国の連邦準備理事会を訪問し、98年に支払わないといけない対外債務の返済額が約650億ドル、これに国内銀行や韓国企業の海外支店の借り分も含めると、約1150億ドルにもなる、ところが韓国中央銀行の外貨準備はこれをまかなえる準備がなく、そのためいつ債務不履行が起きても不思議ではない、と伝えた模様です。米国金融当局はこれに支援を与えることを決め、IMFに支援に乗り出すように伝えました。
 11月23日、IMF(国際通貨基金)が米国政府の意を受けて調査団を韓国へ送りました。12月3日には年次審査報告書と経済再生プログラム(「IMF意向書」とも呼ばれている。)を韓国政府との間で合意しました。その中には、韓国銀行法、金融監督機構の新設に関する法、金融産業の構造改善に関する法などの金融再生の法案の制定を韓国政府に要求し、これらは12月24日にIMFが融資のために合意内容の前倒し実施、労働市場への言及などの条件の追加を発表した頃からようやく沈静化傾向となり、12月29日に国会を通過しました。
 IMF(国際通貨基金)を中心とする国際金融支援(IMFのStand- by Creditの承認日は1997年12月4日)はつぎのようなものでした。
 まず、金融支援として次のような割り当てがなされました。IMFが210億ドル(融資適用期間は3年)、世界銀行が100億ドル、ADB(アジア開発銀行)が40億ドル
であって、これら2国際機関を合わせて142億ドルとの説もあります。
 国別では、日本が100億ドル、米国が50億ドル、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、カナダ、オーストラリアで各12.5億ドル。以下、1997年12月25日支援表明したのはオランダ、スウェーデン、スイス、ベルギー、ニュージーランドであって、合計12.5億ドル。以上を併せると、総額583.5億ドルとなりました。
 この融資のための条件としては、主につぎのようなものでした。
①金融引き締め
・1998年~1999年の経常赤字をGDP(国内総生産)の年1%以内に抑制すること。
・GDP成長率を年3%以下に抑制すること。
・物価上昇率を年5%以下に抑制すること。
・付加価値税の免除枠を大幅に削減すること。
②規制緩和
・外国企業による国内機関の買収・合併の認可
・外国人による株式投資枠の拡大と社債市場の早期完全開放
・輸入多角化品目(日本からの輸入規制)撤廃の前倒し実施
③企業行動規範と企業構造改革の徹底
・企業情報の透明性を確保すること。
・特定企業に対する政府の優遇措置の撤廃
・企業の借り入れ依存体質を改善すること。
・財閥の相互保証制度を改善すること。
④労働市場の流動化推進
⑤外貨準備と金融機関の情報開示(ディスクロージャー)の推進
 以上のうち、委譲プログラムの金融機関と企業の構造改革については、経営の悪化した金融機関の整理、企業の連結バランスシートの作成と相互債務保証(財閥(ヂェボル)の同系列にある企業同士が金融機関から融資を受ける際に相互に債務保証を与え合う行為)の解消を盛り込みました。外貨の流出を組み止めるために韓国政府は、為すすべがありませんでした。外貨不足から金融危機へ、さらに経営危機へと動いていきました。金利は年率30%まで上昇し、株価指数は300まで落ち込み、経済成長率は△5.8%に推移しました。
 中央銀行は介入等により外貨準備高は大きく減少しました。
 1997年12月になって、韓国の外国為替保有高は僅か38億ドルにやせ細り、不渡りに陥り、IMFの融資で息をつなぐことができました。
 株式市場では、株価指数が急落しました。1997年6月をピークに下落していたのですが、1997年末から見ると1996年末から約40%下落しました。
 IMF(国際通貨基金)などによる570億ドル相当の支援が12月5日に決定された後も資本流出とウォンの減価はやまず、1997年12月15日には完全変動相場制へと移行しました。対外債務の借り換え時期を迎え、資金繰りに困る金融機関が続出しました。さらに12月18日には大統領選挙が控えていたが、有力候補のキム・デシュンはIMF経済プログラムを支持することをためらった。このためにウォンは1ドルが1484ウォンまで下落しました。
 1997年12月10日、政府が金融市場安定化策を発表しました。続いて16日には為替相場の変動幅制限を撤廃しました。22日には金利上限の引き上げを実施しました。
 1997年12月下旬となり、国際金融援助で小康状態へ。外貨の流出を組み止めるために韓国政府は、為すすべがなくなりつつあったところで、韓国経済の金融的破綻が面前に迫っていました。
 1997年12月24日、韓国政府はIMFとの間に経済プログラムの加速のための趣意書と覚え書きを結び、IMFは救済資金の前倒し支出を呼びかけました。アメリカの銀行や日本などの銀行も、このころまでに債務者である韓国の銀行、金融機関との間で融資の持続について一時的に同意するところが出てきました。
 これらを受けて、韓国国会は金融改革関連の14法案を可決しました。その中には韓国銀行の独立性強化や金融監督機関の統合等が含まれていました。
 1997年末になると、外資系銀行との間に債務返済の延期の合意が取られました。1998年3月末まで延期するというのが内容です。1997年6月末から98年1月28日までの7か月の間に47.4%も下落したのです。

(続く)

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♦️807『自然と人間の歴史・世界篇』アジア通貨危機(韓国での通貨危機、1997.11.21)

2018-07-08 22:14:39 | Weblog

807『自然と人間の歴史・世界篇』アジア通貨危機(韓国での通貨危機、1997.11.21)

 1997年に入ると、財閥の経営破綻や円安ドル高で韓国の通貨ウォンが円に対して上がったこともあって、それまでの経済成長が鈍化してくる環境が整ってまいります。
 1997年初めの段階で、韓国は金融問題を解決することの大切さに気がつき金融改革大統領委員会を設置しました。1997年7月7日、韓国銀行が貯蓄預金等の金利自由化を実施しました。この措置は、81年から実施の「4段階金利自由化推進計画」の大4段階としてのものでした。8月1日、韓国銀行は銀行による同一企業グループへの貸出規制を実施しました。同委員会は金融を調査し、中央銀行と金融監督局の改革が必要である、との提言をしました。
 この8月中に、韓国政府は、先に立ち上げた金融改革大統領委員会に基づき、13の金融改革法案を議会に提出しました。なかでも韓国銀行法改正案と金融監督機関設置法案とはそれが中央銀行の監督権限を弱めるものでした。なお、この銀行改革法案は11月3日に不成立となります。
 8月25日、政府が金融市場の安定と対外信任度の向上対策を発表しました。そして迎えた1997年10月初旬、IMF(国際通貨基金)は韓国と「第4条」に基づく年次協議を行い、そこで次の声明文を示しました。
 「韓国の状況は東南アジアと異なり、金融セクターには健全性の問題があるが適切に処置すれば対処できると判断する。リスクはあるもののマクロ経済の基礎条件(経済成長率、物価上昇率、失業率、財政収支、経常収支など)は強固であり、経常収支の赤字幅についてもそれほど心配しなくてもよい水準にまで縮小してきている。対外借り入れについては困難な状況にはあるが、政府当局がこの状況に対して賢明に対処できると確信している。」
 10月13日、政府が証券市場の先進化対策を発表しました。その17日には、外国為替取引の自由化策を発表しました。19日には政府が株式市場の安定化策を、28日には投資信託取引にかかる規制緩和策を、29日には金融市場安定化策をそれぞれ発表しました。10月30日、政府は、金融市場を安定させるため実需要目的以外のドル買いの一時停止を発表しました。
 1997年後半になって、韓国のウォンの急落が始まりました。もっとも兆候はその前からありました。顧みて、アジア通貨の下落の波はタイから始まりました。1997年4月から大量のバーツ売りがあり、7月には管理フロート制に入りました。その後3か月の間に、インドネシアのルピア、マレーシアのリンギ、10月には香港のドルにも金融危機がひろがっていきました。
 そして、10月末になると、韓国に短期化で資金貸しをしてきた米国や日本の銀行など国際金融資本が借り換えに応じなくなりました。かれらの資金の引き上げが始まったのです。
 1997年11月になって、事態が急変しました。韓国の通貨ウォンが11月10日には1ドルが1000ウォン近くまで下落した。17日になると都市銀行の5行が外貨決済不能に陥り、韓国政府(キム・ヨンサム政権)がウォンの防衛をあきらめたのではないかとの憶測が市場に出回り、11月17日から3日間は外国為替取引が中断されました。中央銀行によるウォン買い支えの原資となる使用可能な外貨準備高は、通貨防衛のための介入のため10月末の223億ドルから2週間ばかりの間にさらに減り続けました。
 11月11日、韓国財務省は日本に二国間資金支援を要請しました。また、日本の金融機関が韓国の金融機関への短期融資を継続してくれるよう仲介を頼みました。韓国政府の財政ばかりが多額の対外債務を背負っていたのではなく、あくまで韓国の金融機関が抱える対外債務が支払い不能に陥ることを回避しようとしたものでした。これに対し、米国政府は日本政府が韓国の要請に乗ればIMFに泣きつくことはしないのではないか、と警戒感を示しました。
 11月17日には1ドルが1000ウォンを割り、さらに月末には1ドル1400ウォン程度まで急落しました。12月になるとさらにウォンは急落し、外貨も12月2日時点で60億ドルまで減少、12月23日に1ドルが2000ウォンを下回る事態に陥りました。次に述べるIMF(国際通貨基金)を中心とした緊急金融支援が決定されたのが12月3日ですから、その後もしばらくはウォン下落に歯止めがかからなかったことが窺えます。
 1997年11月中旬に政府は金融市場安定をねらってやむなく外国為替の一日当たり変動幅制限を拡大しました。従来の中心レートから上下2.25%幅を10%に拡大しましたが、制限幅一杯の減価が続きました。
 11月19日には、政府が金融市場の安定と金融産業構造調整のための総合対策をとるつもりであることを発表しました。」(拙ホームページ)

(続く)

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