♦️456『自然と人間の歴史・世界篇』コンゴ(フランスから独立した国)

2017-12-05 22:00:42 | Weblog

456『自然と人間の歴史・世界篇』コンゴ(フランスから独立した国)

 こんにち「コンゴ」という名称を付された国には二つあるのだが、もう一つは同じ中部アフリカに位置しながら、旧宗主国は、フランスである。大まかには、コンゴ民主共和国の概ね西側にある。つまり、この二つの国は隣あわせである。こちらの首都のブラザビルは、コンゴ川を挟んで、コンゴ民主共和国の首都キンシャサの対岸にある。より広くは、コンゴ川(ザイール川)の西岸から、河口の大西洋岸の一帯をしめる。その北部は中央アフリカ、西にはガボンがある。南西は大西洋に面す。
 1882年、フランス人探検家ド・ブラザが、フランス政府によってこの地に派遣されてくる。彼の一行は、コンゴ川(ザイール川)右岸で現地首長と保護条約を締結する。つまりは、現地の人びとを守ってやる、そのかわりに、この地をフランスの植民地とすることを承諾させる。その上で、こちらもベルギーには負けられない。1884~85年のベルリン会議でのフランスは、この地の支配につき欧米列強の承認を取り付ける。
 1910年、フランスは、この当たりに展開する自国の植民地を、「フランス領赤道アフリカ」として再編成する。具体的には、チャド、ガボン、ウバンギ・シャリ(現在の中央アフリカ)、そしてこの地を統合する。フランス政府は、現地に植民地政府をつくる。それから、この地に展開するフランス企業に大いなる便宜を与える。そのため、現地人に対し徹底した搾取が行われる。これに対するコンゴ人民の不満は大きく、小規模な暴動が数多く起こるが、その都度フランス軍によって鎮圧される。
 その後の第二次世界大戦中は、この地は、ド・ゴールの自由フランスの拠点の一つとなる。1946年には、南部でコンゴ進歩党(PPC)が、北部でフランス社会党の支部がつくられる。後者は、アフリカ社会主義運動(MSA)がつくられる。さらに1956年には、ユールーらによりアフリカ人擁護民主同盟(UDDIA)がつくられる。そして迎えた1958年、フランス本国が第五共和制に移行するのとあわせ、フランス領コンゴは11月を期してフランス共同体内の自治共和国へと昇格する。植民地時代はここに終わり、UDDIAの指導者ユールーが初代の大統領に就任する。
 独立後は、社会主義政権が長期間続いていく。この間、1969年にはコンゴ人民共和国と国名を改めたが、1991年にコンゴ共和国に戻され、それなりの民主化が進んでいくのであるが。しかし、その後も政情不安定が続いている。

(続く)

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♦️455『自然と人間の歴史・世界篇』コンゴ民主共和国(ベルギーから独立した国)

2017-12-05 21:59:29 | Weblog

455『自然と人間の歴史・世界篇』コンゴ民主共和国(ベルギーから独立した国)

 こんにち「コンゴ」という名称を付された国には二つあるのだが、こちらのコンゴ民主共和国は、中部アフリカに位置し、旧宗主国はベルギーである。この国の西隣にある、別の国としてのコンゴに比べ、こちらの国の国土面積はアルジェリアに次いで当たりかで2番目に広い。地理的には、北西にコンゴ共和国、南西にアンゴラ、南にザンビア、東にタンザニア、ブルンジ、ルワンダ、北東にウガンダ、南スーダン、北に中央アフリカ共和国と国境を有する。そして、僅かながらではあるが、大西洋に面している。首都のキンシャサは、人口1000万人を超える大都市だ。
 13~15世紀にかけて、この地域はコンゴ王国の最盛期を迎える。この王国は19世紀までこのあたりを支配し、バントゥー系の言語を話すコンゴ族が中心となって治めていた。しかし、19世紀末からの西洋列強によるアフリカ分割の時代に入ると、この地はベルギーとフランスが競い合う形での植民地獲得にさらされていく。まずは、1908年のベルギー領。こうなるにいたった経緯については、こう説明される。
 まずは、ベルギー国王レオポルド2世が19世紀後半ヨーロッパ列強に伍してアフリカ進出を企てる。彼は、王室の私有財産として中部アフリカの植民地(現、ザイール)を創設する。レオポルド2世は、なかなかの策士であった。探検家H・スタンリーをコンゴ川流域に派遣して、現地の首長たちとおよそ400にもおよぶ保護条約を結ばせる。この組織を、彼の私的組織であるコンゴ国際協会(1878年に創設)の傘下に組み入れる。その上で、1884~85年のベルリン会議に臨む。
 この会議で、彼はこの地域に対する同協会の既得権を認めさせるのに成功する。1885年、この地はコンゴ自由国に改組される。同康応は、その国王を兼ねる。その後、彼はこの地の開発を進めるのだが、「コンゴ商工会社などを通じての彼の開発は、土地の没収、象牙やゴム取引の独占、強制労働など<自由国>の名にそぐわない苛酷な政策によってすすめられたため、内外から激しい非難」(伊谷純一郎他編著「アフリカを知る事典」平凡社、1989)を浴びる。扱いに困ったレオポルド2世は、1908年、この地に関する主権をベルギー政府に移す。
 アイザック・デイネーセンによれば、この地の植民地時代の風景は、次のようなものであったという。
 「私の農園ではコーヒーを栽培していた。その土地はコーヒーを植えるにはいくらか高度がありすぎるので、栽培は手のかかる仕事になり、この農園で十分な収益を上げたことは一度もなかった。(中略)
 というのは、この農場はナイロビの街から一千フィートの高所にあった。夕方かえってくる行列を迎えに出る。疲れた牛たちはからの荷車を引きながら首をたれ、これも疲れた子どもたちが牛に付き添っている。重い足取りの馭者は道の土埃のなかにむちを引きづっている。われわれは今や、できるかぎりのことをしとげた。一両日中にコーヒーは海上を運ばれてゆき、あとはロンドンの大せり市での幸運を祈るばかりだ。(中略)
 私は六千エーカーの土地をもっていたので、コーヒー園以外にかなりの空き地があった。農園の一部は自然林で、一千エーカーほどが借地、いわゆるシャムバスになっていた。借地人は土地の人で、白人の農園の中で何エーカーかを家族ともども耕作し、借地賃代わりに、年に何日か農園主のために働く。わたしのところの借地人たちはこの関係について別の見かたをしていたと思う。というのは、かれらの大半は父親の代からその場所に生まれ育っているからだ。かれらのほうでは私のことを一種の高級借地人と見なしていたらしい。
(中略)
 われらの町ナイロビは12マイル降りたところの、丘に囲まれた小さな平地にあった。ここには政庁や中央各省があり、この領土の中心になっていた。(中略)
 アフリカ人居住区と有色人種植民者居住区は、ヨーロッパ系の住民の区域にくらべてはるかに広かった。」(横山貞子訳・アイザック・デイネーセン著「アフリカの日々」晶文社、1981、15~19ページよりの引用)
 そして迎えた1960年6月、コンゴ民主共和国として旧宗主国ベルギーから独立をかちとったものの、地下資源の利権を巡って内部勢力での争いに発展する。この時に合わせてのベルギー軍の介入もあって、より大規模な内乱が勃発する。これを「コンゴ動乱」と呼ぶ。この動乱だが、1960年7月から1963年1月にかけて争われるるなお、これに続いて1964年6月から1965年3月にかけての紛争までを含めて、こう名づける場合もある。
 では、なぜ内乱という事態にまで立ち至ったのだろうか。そもそも、独立の際の国内の各部族は、互いに固い団結で一致していたのではない。そのことが顕在化するきっかけは、国家スタート後の軍隊からであった。1960年になると、軍隊の反乱が地方にも及んでいく。その後の成り行きについては、1960年7月12日、国連は、コンゴのジョセフ・カサブブ大統領とパトリス・ルムンバ首相から政府支援のための国連軍「緊急派遣」を要請する外電を受ける。
 この新事態に驚いた国連のダグ・ハマーショルド事務総長(第二代)は、翌7月13日に開いた安全保障理事会の夜間会合で、この要請に「即刻」応えるよう安全保障理事会に要求する。安全保障理事会の対応を受けてコンゴ国連軍が創設される。事務総長自身も国連の活動に関してコンゴに出向き、和平交渉に当たっていく。最初の2回のコンゴ訪問は、この1960年の7月と8月とであった。それに加えるに、1960年12月、ルムンバ派で副首相のギセンガが中央政府の樹立を宣言する。
 ややこしいことには、この機会をとらえてチョンベら分権派が、カタンガ州(後のシャバ州)の分離独立を宣言するにいたる。旧宗主国のベルギーは同朋の保護を理由にカタンガ州にベルギー軍を進駐させる。国連は、その撤退を要求して、この内乱は国際紛争的様相を呈していく。一方、政府内でも、ルムンバ首相とカサブブ大統領との間で主導権争いが表面化する。ルムンバは1961年2月に殺される。
 さらに、1961年8月には中道派のアデゥラによる挙国一致内閣が成立する。これによりギセンガの内閣は自主的に解消する。他方、カタンガ州だけは、国連やアメリカなどの調停にあづかり、分離政策を続ける。けれども、1962年末に始まる国連軍の総攻撃に屈する。そしてチョンベが1963年1月に同州の分離を撤回するに及んで国の一体性はなんとか回復するのであった。
 それからも、同じ1961年1月には、ハマーショルド国連事務総長が、人種問題に関する別の任務で南アフリカ連邦に行く途中でコンゴに立ち寄る。そして迎えた4回目のコンゴ訪問では、1961年9月12日に出発したものの、ハマーショルドを乗せたその飛行機はアフリカで墜落し、彼自身は事故死してしまうのであった。
 さっそく国連が調査委員会を設置したものの、その時の原因究明では、墜落当時、航空機にはボイス・レコーダーなどがなく、飛行高度を見誤るなど、パイロットのミスやその他の原因による「事故」というのであった。ところが近年、ミサイルによる撃墜の可能性を指摘する専門家の声などが国連に寄せられる中で、再調査が必要だとの声が高まり、潘基文(パンギムン)事務総長時代の2013年、国連は事故の再調査を決めた。そして今回まとめられた報告書は、墜落原因が「外部からの攻撃や脅威」だった可能性があると指摘することで、断定は避けているものの、ハマーショルドが暗殺されたことを示唆することで一歩踏み込んだ形だ。
 しかし、その後のコンゴについても政治は安定にはむかっていかない。1965年には、クーデターでモブツ政権が成立する。国軍は、相変わらず、政権の成り行きに大きな影響力を持ち続ける。1971年には、ザイール共和国に国名を変更する。1990年には、複数政党制を導入する。1996~1997年は第一次コンゴ内戦。1997年、ローラン・デジレ・カビラが大統領に就任する。モブツ大統領は国外逃亡する。国名も、コンゴ民主共和国に変更する。1971年10月27日からしばらく「ザイール」という国名になっていたものを、1997年に再びコンゴ民主共和国の国名に変更して、現在にいたる。
1998年には、第二次コンゴ内戦が発生する。
 世紀が改まっての2001年、ローラン・デジレ・カビラ大統領が暗殺されると、息子のジョゼフ・カビラが大統領職を継ぐ。2002年、プレトリア包括和平に合意が成る。2003年、暫定政権が成立し、内戦が終結する。2005年12月、憲法草案に対する国民投票が実施される。2006年2月に、新憲法が公布となる。2006年の大統領選挙、国民議会選挙の実施があり、ジョゼフ・カビラが大統領に就任する。2011年12月、大統領選挙と国民議会選挙の実施があり、ジョゼフ・カビラ大統領が再選を果たす。

(続く)

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