♦️476『自然と人間の歴史・世界篇』ニジェール

2017-12-09 20:51:12 | Weblog

476『自然と人間の歴史・世界篇』ニジェール

 ニジェール(1960年8月3日に独立、旧宗主国はフランス)は、西アフリカのサハラ砂漠南縁のサヘル地帯に位置する。首都はニアメ。アルジェリア、マリ、ブルキナファソ、ベナン、ナイジェリア、チャド、リビアと隣接する。内陸国である。
 この地には、ニジェール川が流れる。西アフリカを経由して、やがて河口に大デルタ地帯を形成しギニア湾に注ぐ大河だ。流れギニア湾に注ぐ。全長 4千キロメートルを超える。ギニアの山地から北東に流れてマリ共和国に入る。そこから南東にニジェール、ナイジェリアを流れる。
 7~19世紀、ソンガイ、ガオ、マリ、ボルヌー、ハウサ、フラニなど諸王国の抗争や勢力の変遷が続く。いずれも、近隣諸国を攻めたり、それらに攻められたりを繰り返す。したがって、全域の長期安定的支配は固まらなかった。
 19世紀末、イギリスとフランスがこの地域に進出してくる。1890~1898年、二度にわたる両国の協定で、イギリスが譲歩する形でフランスがこの地での植民地経営の主導権を握る。1904年と1906年の両国の合意により、現在のニジェールの国境線がほぼ決まる。1958年9月には、同国のニジェール植民地となってフランス共同体に加盟する。
 その独立に向けては、1958年12月、共和国宣言を発す。続いての1960年8月、フランスから独立し、デイオリが初代大統領に選出される。1974年、参謀総長のセイニ・クンチェらによる軍事クーデターが成功し、軍事政権が樹立される。1987年、11月、クンチェ議長の死去に伴い、サイブ政権が成立する。1989年9月、国民投票で新憲法が承認される。12月、大統領選挙によりサイブが大統領に選出される。1990年11月には、複数政党制が導入される。1992年12月、新憲法の国民投票が行われる。1993年2月、議会選挙及び同年3月大統領選挙でウスマン大統領が選出される。
 1996年1月、マイナサラ参謀長らによる軍事クーデターが勃発する。2月には、民政移管宣言が発せられる。1996年5月には新憲法が採択される。7月には、大統領選挙及び11月国民議会選挙が行われる。1999年4月には、マイナサラ大統領が暗殺される。1999年7月、新憲法国民投票。1999年11月、大統領選挙(タンジャ大統領選出),国民議会選挙。
 2004年12月、大統領選挙(タンジャ大統領再選)と国民議会選挙とがあわせ実施される。2007年6月、内閣不信任案可決により、セイニ・ウマル内閣が発足する。2009年8月、大統領三選を可能とする新憲法が国民投票により採択される。10月には、国民議会選挙が実施される。2010年2月、軍部がタンジャ大統領を拘束し、軍部による暫定政権が発足する。2011年1月、大統領選挙(第1回投票)と国民議会選挙がある。2011年3月、大統領選挙の第2回投票でイスフが大統領に選出される。2011年4月、イスフ大統領が就任する。2016年2~3月、大統領選挙が行われイスフ大統領が再選される。

(続く)

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♦️475『自然と人間の歴史・世界篇』ベナン

2017-12-09 18:55:08 | Weblog

475『自然と人間の歴史・世界篇』ベナン

 ベナン人民共和国(1960年8月1日に独立、旧宗主国はフランス)は、西アフリカに位置する。南北に長く、西にトーゴ、北西にブルキナファソ、北東にニジェール、東にナイジェリアと接し、南は大西洋のギニア湾に面する。
17世紀、ギニア湾に近いアラーダ王国で王位争奪に敗れたド・アクリン王子らがこの地にやってきて、アボメイ王国、後のダホメ王国が建国されると、アポメを都として、軍備に怠り無く、近隣に力を伸ばす。18世紀前半にアラーダ王国を征服したことで、奴隷貿易港のウィダーの支配権を手に入れる。これ以後、ポルトガルとの奴隷貿易にのめり込んでいく。その後も、近隣の小国との戦争で獲得した捕虜を奴隷としていく。東隣のベニン王国(現在のナイジェリアの西部州を根拠地に、13~18世紀に存続)と共に奴隷供給地となっていく。
 なお、これに関連して、1985年にユネスコの世界遺産に登録された「アボメイの王宮」とは、かつて奴隷貿易で栄えた、かかるフォン族のアボメイ王国の軍事国家の素顔を伝えるものだ。
 1884年、フランス軍のこの地への介入が始まる。ポルトガルに対抗して、この地に力を伸ばしていく。ポルトガルも商館兼要塞をウィダーに造る。1892年、フランスの保護領となる。19世紀末までに、この地域はフランスの支配下に入る。1894年、フランスはこれらの王国をフランス領ダホメーとして植民地化する。1900年、ポルト・ノボをその首都とする。1946年、フランスの海外領土となる。
 1960年8月、独立を宣言し、ダホメ共和国となる。1963年~1972年、5度の軍事クーデターが起きる。1972年10月、5度目のクーデターを指揮したマチウ・ケレク司令官が大統領に就任する。1975年11月、ベナン人民共和国に国名を変更する。これには、過去の正装に終止符を打ち、自国内だけでなく、現在のナイジェリアに栄えたベニン王国の名にあやかるとともに、マルクス・レーニン主義を標榜しての国造りを謳ったものと思われる。土地所有について、手工業者その他の私有財産、そして外国人の試算も、それが国民経済に役立つとされる場合は、保護する。
 1979年11月、国民革命議会人民委員選挙が実施される。1082年、ケレク政権は、ソ連よりの閣僚を追放する。1989年12月、マルクス・レーニン主義を放棄する。1990年3月、1997年共和国基本法を停止する。国民革命議会を解散し、国名をベナン共和国に変更する。1991年3月、ソグロを大統領に選出する。1993年6月、最高裁判所が設立される。1996年3月、ケレク大統領が返り咲く。
 1999年3月、国民議会選挙。2001年3月、大統領選挙でケレク大統領が再選される。2003年3月、国民議会選挙。2006年3月、大統領選挙があり、ボニ・ヤイ大統領が選出される。2007年5月、国民議会選挙。2011年3月、ボニ・ヤイ大統領が再選される。2011年4月、国民議会選挙。2014年4月、国民議会選挙。2016年3月、大統領選挙があり、タロンを大統領に選出する。

(続く)

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♦️474『自然と人間の歴史・世界篇』モザンビーク

2017-12-09 18:54:09 | Weblog

474『自然と人間の歴史・世界篇』モザンビーク

 モザンビーク(1975年6月25日に独立、旧宗主国はポルトガル)は、アフリカ大陸南東部に位置する。南に南アフリカ共和国、南西にスワジランド、西にジンバブエ、北西にザンビア、マラウイ、北にタンザニアと国境を接する。それから、モザンビーク海峡を隔てて東にマダガスカルとコモロが存在する。首都はマプト。
 このモザンビークで大河となってインド洋に注ぐのが、ザンベジ川である。アフリカ大陸南部の内陸から、サバナの高原の深い峡谷を刻むように流れてくる。河口から遡ると、ザンビアとジンバブエの国境からナミビア、それからザンビア西部、アンゴラ東部、その先のザンビア北西端付近に源を発す。現在は、ザンビアとジンバブエとの国境から、ビクトリア瀑布を過ぎた、その下流にカリバダムがあるという。
 1498年、ポルトガルのバスコ・ダ・ガマの一行がアフリカ東海岸にやってくる。ソファラ、モザンビークなどに寄港してから、ザンベジ川の河口にとりつく。1514年頃からのポルトガルは、ザンベジ川を遡り、探検する。1535年にはセナとテテの2ヶ所に商館を築き、この地を治めるモノモタパ王国との取引を行う。1544年、ポルトガルの貿易商人ロレンソ・マルケスがマプト湾周辺を調べる。以後、ザンベジ川を遡るルートがポルトガル人の内陸進出ルートとなる。16世紀半ば、ポルトガルによる植民地経営が始まるる。奴隷貿易がこの地で本格化していく。1629年、現在のモザンビークの地はポルトガルの植民地となる。1752年には、ポルトガルによりモザンビーク総督府が設置される。
 時代はさらに下る。19世紀の中ごろ、この川を西の方から縫うようにしてアフリカ大陸の東海岸にかけて探検したのが、デービッド・リビングストン率いる探検隊である。1回目の探検は、1849年から1856年にかけて行われた。これにおいては、「ヌガミ湖を発見し、ザンベジ川上流地方を調査し、西海岸のルアンダから東海岸のケリマネまでの大陸横断をひらき、世界で一番大きいビクトリア滝を発見」(デービッド・リビングストン著、塩谷太郎訳「秘境アフリカ探検」あかね書房の少年少女大冒険7、1976)する。特に中流地域を詳しく探検した模様が、彼の探検記にこう記される。
 「テーテの村は、ザンベジ川にむかった長い斜面の上にあって、とりでは、川のすぐそばにあった。(中略)この地方のポルトガル勢力は、だんだんおとろえはじめていたが、そのわけはこうだった。
 ここは、まえには、たくさんのコムギ、キビ、トウモロコシなどのこくもつのほかに、コーヒー、サトウ、油、アイ、砂金、ぞうげなどを輸出していた。
 砂金の採集も、どれいたちの手でおこなわれていた。ポルトガル人の商人はす、自分のどれいをつれ、できるだけたくさんのキャラコや、そのほかの品物をもって、採集地へでかけていった。
 そこへつくと、まず、1ポンドくらいのねうちの氏波のを、しょう長にやった。(中略)
 しゅう長やの者たちは、砂金とりがくるのをよろこんだ。ポルトガルの商人は、もってきた品物で、どれいたちの食糧にするこくもつを買ってくれたからだ。
 かれらは、その品物がなくなるまで、こうした仕事をつづけ、毎年およそ59トンの金を手にいれていた。
 しかし、いまでは、1年間にポルトガル人が集める金は、4、5トンにへっている。どれいの売買がはじまってからは、どれいを売ったほうが、砂金とりや農業をするより、ずっと手っとりばやく、もうかったからだ。それで、どんどん手もちのどれいを売ったので、とうとう、人手がたりなくなってしまった。コーヒーやサトウの栽培も、砂金とりも、どれいがブラジルにいってしまったため、おしまいになった。
 どれいたちについて、ポルトガル人も、どんどん、外国へいってしまったので、政府は、法律をつくって、これ以上の海外移住を、ふせがなければならなかった。ほうっておいたら、ポルトガル植民地の人口は、どんどんへってしまったからだ。」(同)
 さて、1898年には、モザンビーク島からロレンソ・マルクス(現在のマプト)へ遷都がある。1920年頃から独立運動が始まる。1962年、モザンビーク解放戦線(FRELIMO)が結成される。それからは、モザンビーク独立戦争を戦う。
 そして迎えた1975年6月25日、独立が果たされ、マシェルが初代大統領に就任する。1977年、モザンビーク内戦(~1992)が勃発する。1986年10月にマシェル大統領が死去し、11月にはシサノが大統領に就任する。1992年10月、モザンビーク包括和平協定に署名する。1994年10月には大統領・国民議会選挙が行われ、12月にシサノが大統領に就任する。1999年12月、大統領・国民議会選挙でシサノ大統領が再選される。
 2004年12月、大統領・国民議会選挙でゲブーザが大統領に当選し、2005年2月に大統領に就任する。2009年10月、大統領・国民議会選挙、州議会議員選挙が行われ、ゲブーザ大統領が再選される。2014年10月には大統領・国民議会選挙、州議会議員選挙があり、 ニュシが大統領に当選、2015年1月にニュシが大統領に就任する。

(続く)

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♦️473『自然と人間の歴史・世界篇』サントーメ・プリンシペ

2017-12-09 18:53:13 | Weblog

473『自然と人間の歴史・世界篇』サントーメ・プリンシペ

 サントーメ・プリンシペ民主共和国(1975年7月12日に独立、旧宗主国はポルトガル)は、西アフリカのギニア湾に浮かぶ島にある。火山島であるサントーメ島、プリンシペ島、周辺の島々から成る共和制の島国である。首都はサントメ。東京都の約半分のところに、約20万人(2016年、世銀)が住む。
 1975年7月、ポルトガルから独立し、ダ・コスタ大統領が就任する。1965年10月、ダ・コスタ大統領が3選される。1988年3月、クーデター未遂事件が発生する。
1990年8月、憲法改正で複数政党制への移行となる。1991年3月、大統領選挙でトロヴォアダが大統領に選出される。1996年7月、大統領選挙でトロヴォアダ大統領が再選を果たす。2001年7月、大統領選挙でデ・メネゼスが大統領に選出される。2006年7月、大統領選挙でデ・メネゼス大統領が再選となる。2011年8月、大統領選挙でダ・コスタが大統領に選出される。2016年7~8月の大統領選挙により、エヴァリスト・カルヴァリョが大統領に選出される。

(続く)

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♦️473『自然と人間の歴史・世界篇』カボベルデ

2017-12-09 18:52:17 | Weblog

472『自然と人間の歴史・世界篇』カボベルデ

 カボベルデ共和国(1975年7月5日に独立、旧宗主国はポルトガル)は、大西洋海中のベルデ諸島にある。地理的には、大西洋の中央、北アフリカの西沖合いのマカロネシアに位置するバルラヴェント諸島とソタヴェント諸島からな。首都はプライア。
 15世紀頃、ポルトガル人がこの地にやってくる。当時は無人に近い群島であったともいうのだが。1495年、ポルトガルがこの群島を自国領に組み入れる。ポルトガル人が入植してくる。その後は、奴隷貿易でこの地は繁栄をしていく。これは、1876年の奴隷貿易廃止まで続く。
1951年のポルトガル憲法により、それまでの植民地は海外州となる。1956年、ギニア・カボベルデ独立アフリカ人民党(PAIGC)が創立となる。1974年4月、
ポルトガルで革命を起き、新政権のPAIGCとの協議が進み、独立が決まる。1975年7月、ポルトガルより独立を果たす。ポルトガルは、10項目の友好協力条約を結ぶ。この独立後は、PAIGCのペレイラが大統領に就任する。
 1980年には、憲法が制定される。なお、PAIGCの方針としては、両国の統合を目指す。同年11月、ギニア・ピサウで、両国の統合に反対するクーデターが起きる。失敗に終わるが、カボベルデでは統合に関する憲法の条項が廃棄される。同月、PAIGCを独自のカボベルデ独立アフリカ人党(PAICV)に改組する。
 1985年12月 総選挙があり、ペレイラ大統領が3選される。1990年9月、憲法改正により複数政党制への移行がある。1991年2月、大統領選挙があり、モンテイロが大統領に選出される。1996年2月、大統領選挙で、モンテイロ大統領が再選される。2001年2月、大統領選挙でピレスが大統領に選出される。
 2006年2月、大統領選挙でピレス大統領が再選される。2011年8月、大統領選挙でフォンセカが大統領に選出される。2016年10月、大統領選挙でフォンセカ大統領が再選される。

(続く)

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♦️470『自然と人間の歴史・世界篇』コートジヴォワール

2017-12-09 18:50:12 | Weblog

470『自然と人間の歴史・世界篇』コートジヴォワール

 コートジヴォワール(1960年8月7日に独立、旧宗主国はフランス)は、西アフリカに位置する。ここに、「コートジヴォワール」とは「象牙海岸」の意味、公用語はフランス語。地理については、東にガーナ、北にブルキナファソ、マリ、西にギニア、リベリアと国境を接し、南は大西洋に面する。首都はヤムスクロ(ただし、実質上の首都機能は旧首都のアビジャンが担う)。
 14世紀以前にはグリシャボ王国、ベチェ王国、アンデニュ王国が混在していたらしい。1958年9月、フランス共同体に加盟する。1960年8月、コートジボワール共和国として独立を果たす。同年11月、初代大統領にウフェ・ボワニが選出される。1990年10月、ウフェ・ボワニ大統領が再選される。1994年2月、ウフェ・ボワニ大統領死去に伴い、コナン・ベディエ(暫定)大統領が就任する。
 1999年12月、ゲイ元参謀総長が全権を掌握し、ベディエ大統領は国外へ逃れる。2000年1月、ゲイ元参謀総長を首班とする暫定政府が成る。しかし、10月にはゲイが失脚。大統領選挙の結果,バグボが大統領に就任する。
 2002年9月、一部兵士による騒擾事件が発生し、北部及び西部掌握する。2003年1月、マルクシ和平合意が成立する。3月には、国民和解と謳う政府が樹立される。2004年4月、国連PKOが派遣される。2005年12月、バニー内閣が成立する。2007年3月、ワガドゥグ合意が成立する。2010年11月の大統領選挙の結果でもめる。12月、ウワタラ大統領及びバグボ氏ともに大統領就任宣誓式を実施し、正当性を張り合う。2011年年5月、憲法院はウワタラ大統領の当選を宣言する。2011年12月、国民議会選挙がある。2015年10月、大統領選挙でウワタラ大統領が再選される。

(続く)

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♦️454『自然と人間の歴史・世界篇』ナイジェリア

2017-12-09 18:19:30 | Weblog

454『自然と人間の歴史・世界篇』ナイジェリア

 ナイジェリア共和国の建国までの道のりはどのようであったのだろうか。この国は、西アフリカに位置する。およそ2億人の人口を抱え、アフリカ最大。面積も広い。
 13~18世紀、現在のナイジェリアの西部州を根拠地にベニン王国が栄える。1920年、イギリス領ゴールドコースト(黄金海岸)のアクラで、イギリス領西アフリカ国民会議が開催される。この会議には、ナイジェリアからも6人が参加する。1922年、立法審議会設置を受けて、ハーバート・マコーレーを党首とするナイジエリア国民民主党が結成される。1947年にはリチャードソン憲法が、1951年にはマクファーソン憲法が英国植民地政府によりつくられ、西部、東部及び北部の3州制への移行と、選挙権の拡大がなされる。
 1951年以降、北部人民会議(NPC、ハウサ族が中心)、西部の行動党(AG、ヨルバ族が中心)、東部州ではNCNC(イボ族が中心)がそれぞれ活動する。1960年10月1日、これらの諸州が集まってナイジェリア連邦としてイギリスから独立を果たす。ここに国号の「ナイジェリア」とは、ニジェール川の英語読みのナイジャーにちなむとか。東隣のカメルーンの住民投票にて、旧イギリス信託統治領の北部がナイジェリアへの併合を決める。そのことで、この部分の領土を合わせての独立を勝ち取る。
 独立の3年後には共和国となる。それまで元首であったエリザベス女王に代わって、アジキウエ博士が大統領職に就く。独立の6年後の1966年1月には、若手将校による最初の軍事クーデターが起きる。これによってバレワ連邦首相と2人の州首相、汚職の代表格であったオコチエ連邦大蔵大臣が殺される。それでも落ち着かず、イロシン将軍による軍事クーデターが起こる。イボ人の利益に沿う形で、イロシン少将(1925-66)の率いる「事態収拾クーデター」により彼をを首班とする軍政が始まる。
 当時この国は、北部、西部、東部、中西部の諸州からなる連邦制をしいていた。その当時、ナイジェリアの部族は北部のハウサ人が人口比で最大であり、他のイボ族などを圧倒していた。にもかかわらず、政治的経済的には、この国は建国以来ずっとイボ人が支配していた。こうした多数派から見た人々の不満と怒りは、2つの軍事クーデターではおさまらない。この後、北部州において、イボ人支配に反発するハウサ人などによって、北部州に居住するイボ人の大虐殺(ポグロム)が起きる。北部州からは、このとき100万人以上のイボ人が東部の州に逃れたとも伝えられる。

(続く)

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