♦️126『自然と人間の歴史・世界篇』中国の南北朝時代

2017-12-27 08:56:10 | Weblog

126『自然と人間の歴史・世界篇』中国の南北朝時代


 ここで少し顧みると、304年匈奴の劉淵の建国から439年北魏が華北を統一するまでの、華北に興亡した五胡や漢民族の国々を総称して五胡十六国という。五胡とは、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つをいう。また、十六国(304~439)とは、北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数はもっとあったらしい。
さて、南進して、華南に本拠を移した東晋(317~420、なおその前の西晋は265~316)だが、これを取り巻く政局は、不安定ながらもやや落ち着いていく。356年には、桓温が北地に軍を進めて、洛陽を一時占領することがあった。383年には、
淝水の戦い(ひすいのたたかい)があった。華北の盟主であった前秦の軍が江南に進撃し、東晋軍と淝水(ひすい、現在の安徽省寿県の東南)で激突する。攻め寄せた大軍に対し、東晋軍は前秦軍の軍列が整わぬうちに先制攻撃をかけた。そのことで、勝敗が前秦に不利に傾く。前秦軍は総崩れとなって、華北へ敗走する。
 しかし、その後の東晋はふるわなくなっていく。君主の暗愚と、貴族が互いに争たり社交の生活に沈み、まっとうなる政治を捨てたこと、それらのことにより農民などの反乱が広がる。桓温の子桓玄が帝位を奪うにいたり、4世紀末からは国内は内乱状況を呈していく。
 420年、軍人の劉裕が東晋最後の恭帝を退位させる、形ばかりは禅譲を受ける形で、華南に宋王朝(420~479)を建てる。都は建康(現在の南京)に置く。劉裕は武帝となり、軍事政権という性格を押し出していく。ほどなく、439年に北魏(386~534)が華北を統一し、中国は南北朝の時代に入る。北朝については、北魏の後は東魏(534~550)、北斉(550~577)、西魏(535~557)、北周(557~581)へと王朝が乱立もしくは移り代わっていく。
 南朝の宋の2代目の文帝は、文芸を奨励し六朝文化が繁栄し、詩人の謝霊運などが活躍する。けれども、政治の方はだんだんにおろそかになっていく。貴族は、封建制社会の下での特権的地位を子孫に継承させていく。彼らは、互いに利益をめぐって争いながらも、徒党を組んで人民から搾取する。そんな社会の頂点に立つ皇帝は、貴族層の専横と常に妥協を図らねばならず、改革を行うのは至難だ。
 続いて斉(479~502)、梁(502~557)それから陳(557~589)と、短命な政権がつぎつぎに興亡していく。
 これらのうち梁の時代の政治では、武帝(治世は502~549)にみるべきものがあった。彼は、「武人でありながら、一流貴族に堂々と対抗しうる文化人でもあったからである」(尾崎康「貴族社会の形成ー魏晋南朝の政治と社会」:伊藤清司・尾崎康「東洋史Ⅰ」慶応義塾大学通信教育教材、1976)との指摘もなされる。
 このようにして、ほぼ170年の間にめまぐるしい王朝の交代が見られたのだが、最後の陳(南朝)も、581年にに至り、北周をついだ隋によって滅ぼされる。その隋(581~618)が中国を再び統一する。

(続く)

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