♦️531『自然と人間の歴史・世界篇』戦後ヨーロッパの出発(スウェーデン)

2017-10-26 09:56:33 | Weblog

531『自然と人間の歴史・世界篇』戦後ヨーロッパの出発(スウェーデン)

 現在のスウェーデンにおいては、ノルマン人がキリスト教を受け入れて10世紀頃までに最初の建国の機運が高まる。8~10世紀はまた、ヴァイキング全盛時代であった。そのヴァイキングとは、「不在者」が語源ともいわれ、いわば当時の海賊にほかならない(発行者は白井勝也「地球紀行、世界遺産の旅」小学館、1999)。
 バルト海のほぼ中央に浮かぶゴットランド島は、現在のスウェーデン南東部にあるが、この島の北西部にある都市のヴィスビュー(ヴィスビーとも)は、その時期にノルマン人によって港が建設され、やがてドイツ人が住み着いて、主にロシアとの貿易の中継基地としての役割を演じるようになる。それからは、かれら入植のドイツ人と現地島民との間に平和協定結ばれ、概ね共存の地域社会が築かれていく。12世紀には、港湾都市ヴィスビューとして、当時北ヨーロッパの商取引に大きな影響をおよぼし始めていたハンザ同盟の一員となる。
 それからは、ハンザ同盟都市の一つとして繁栄をほしいままにしていく。港にはヨーロッパ各国からの農産物や工芸品などの物資が集められ、販売地へと運ばれる。ロシアや北欧の特産品もこの地に集められ、ヨーロッパ各地へと運ばれていく。そのことを物語るかのように、総数が200にも及ぶとも言われる、13世紀半ばの最盛期までに建てられた倉庫や貿易施設を抱え、世界遺産に認定されている。その後の1288年には城壁が原因で島民と「いざこざ」が起きたり、1298年には同じく、ハンザ都市としてともに大きな力を持っていた仲間の、ドイツのリューベックがハンザ同盟の代表者であることを宣言するにいたる。それで、ヴィスビューの特権の幾らかが奪われたり、縮減されたのだという。
 1360年には、デンマークの襲撃をうけるのだが、なんとかこれを撃退する、しかし、その頃から、町はだんだんと衰退に向かっていくのであった。それでも、今となっては、リューベックが16世紀に同盟内の内紛で町が破壊されたのに比べ、ヴィスビュー旧市街の方は構造物の自然脱落などを除いてほぼ残っている。そのことが幸いしたのか、1995年には世界遺産に認定された。
 さて、話を戻しての1100年代、王国として統一が始まる。野心の溢れる北欧諸国の新興国として、12世紀には東方に進出、フィン人の居住地フィンランド地方を併合する。14世紀にはカルマル同盟に属し、デンマーク・ノルウェーと「同君連合」に入り、デンマークの支配を受ける。16世紀にバーサ朝が成立して独立、プロテスタント国となり、フィンランドを領有する。17世紀に、三十年戦争に介入してウェストファリア条約でバルト海全域の支配する大国の地位を得る。しかし、18世紀には東方に成長したロシアと北方戦争を戦い、敗れて領土を失う。
 13世紀には、首都としてのストックホルムが建設される。しかし、14世紀には黒死病の流行が北欧三国にも及ぶ。そのために生産力が減少し、王権をめぐっての争いに貴族の対立も加わり、国内に騒擾(そうじょう)が続く。1397年に形成されたカルマル同盟に加わり、実質的なデンマークの支配を受けることになった。15世紀に入り、次第にカルマル同盟からの分離独立を要求するようになる。しかし、宗主国であるデンマークの軍隊によって名実ともに独立国家になろうとの動きは抑えられる。
 1523年のグスタフ・バーサの反乱により、スウェーデンは独立を達成する。同年、彼は国王に推戴され、バーサ王朝が成立する。そのもとで17世紀の国王グスタフ・アドルフの時代には、1618年にドイツで三十年戦争が始まる。同国王は、新教側の救援を決意し、1630年に介入しドイツに侵攻する。ありていにいうと、ドイツ30年戦争に介入したのであった。ドイツ各地で奮戦するも、国王は1632年のリュッツェンの戦いで戦死してしまう。しかし、スウェーデン軍はひるまなかった。1648年には、ウェストファリア条約が結ばれる。この中で、スウェーデンはポンメルンなど北ドイツに新たな領土認められる。要するに、この条約で大国の地位を確保した訳だ。
 18世紀初頭、東の方ではロシアのロマノフ朝が台頭してくる。野心に燃えるロシア皇帝ピョートル1世がバルト海方面に進出してくると、スウェーデンのカール12世はこれを防ごうと戦争となる、これを「北方戦争」という。カール12世の軍はロシアに侵攻して戦うのだが敗れる。これに勝利したロシアが「バルト海の覇者」として東ヨーロッパの大国として有力となっていく。1771年即位したスウェーデンのグスタフ3世は王権強化で国の再起を図るも、1792年に部下に銃撃されたのがもとで、志半ばで死ぬ。
 18世紀末に始まったナポレオン戦争ではイギリスと結び大陸封鎖令に従わなかったので、フランスに従ったロシアとの間で戦争となり、大敗してフィンランドを失う。1810年、バーサ王朝のカール13世に継嗣がないため、議会はナポレオンの将軍ベルナドッテを皇太子として迎えることに決定した。
 ところが、ベルナドッテ王となってからはナポレオンと対立していく。1813年の諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)にスウェーデンは参加し、ナポレオン軍を破る。ナポレオン戦争後の1814年には、デンマークとキール平和条約を締結して、同国からノルウェーを獲得する。これにノルウェーは反発して独立を宣言するも、スウェーデンは軍隊を送ってこれを鎮圧し、一定の自治を認めた上でスウェーデン王を国王とする「同君連合」に組み入れ、影響力を確保する。
 1818年にはベルナドッテが国王(カール14世)としてベルナドッテ朝(現在のスウェーデン王室)を開くこととなった。スウェーデンでは身分制議会が続いていたが、1866年に二院制の議会制をとることとなり、近代化に進み始めた。ダイナマイトを発明し、実業者としても幅広く成功し、大金をものにし、後にこれを反省する中からノーベル賞を創始するノーベルが活躍したのも、この時代である。
 第一次世界大戦では、スウェーデンは中立を守ることができた。戦争参加国に対して、スウェーデンは彼らの主戦場であるところの北方にあるがゆえに、激戦に巻き込まれるのを、なんとか避けることができた形か。戦後のナチスドイツの台頭に対しては、積極的な軍備増強による防衛にあたる。1940年には厳正な武装中立を声明して、火の粉が国内に及んでくるのを食い止めようとする。それからの第二次世界大戦中はドイツ、イギリス双方から協力要請の圧力がかかったが、あくまでどちらの陣営にも与しなかった。
 1945年に第二次世界大戦が終わった後も、基本的に中立政策を維持していく。1946年には、国連に加盟を果たす。その一方で、アメリカ主導のNATO(北大西洋安全保障条約)には加盟しない。そこへもってアメリカによる、ヨーロッパへのマーシャル・プランによる代領の資金散布が始まると、戦争に晒されていなかったスウェーデンには特需がももたらされる。国内産業は大いに発展していく。その中立的なのを買われて国連事務総長に就任していたスウェーデン人のハマーショルドは、後のコンゴ動乱で任務遂行中に遭難するのだが。戦前から戦中、戦後を通じて議会制民主主義が守られたスウェーデンにおいては、社会民主主義を掲げる社会民主党がほぼ一貫して政権を担当していく。

(続く)

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