新65『美作の野は晴れて』第一部、私は学舎で何を学んだのか2

2014-10-30 09:45:41 | Weblog

65『美作の野は晴れて』第一部、私は学舎で何を学んだのか2

 私のつたない記憶によれば、5年生の担任は二宮先生で、最近その先生のお姿を、テレビの番組「世界行ってみたらこんなところ、ホムカミ~ニッポン大好き外国人、世界の村に里帰り」(2014年7月27日の日曜日に放送)で拝見した。新野小学校に通っていた途中で、家の人について南米ボリビアに渡った人が、56年ぶりに日本の西上という村に従兄弟たちや級友、そしてお世話になった先生などに会う話であった。記念の写真撮影の中で、先生は仄かに笑っておられるようであった。その人は、故郷を前にして、「帰ってきたんだよなあ。この風景は忘れないよ」といい、その思いをハーモニカの音色に載せて表現していた。
「うさぎ追い しかの山
つつがなきや ちちはは
夢はいまもめぐりて
忘れが難し ふるさと」(作詞は高野辰之、作曲は岡野貞一)
 その5年生の授業だったかししれないが、美術で自分の拳をデッサンする課題があった。左手を握り、その姿を画用紙に鉛筆で書き入れていく。絵を描くのは嫌いではないが、これを行うとなると、どうにもうまく描けない。それでも、自分なりに鉛筆を走らせて、それらしきものをつくっていった。仕上がり前に、上月君(仮の名)の作品を垣間見たのだが、本物の拳かと驚いた。人にはそれぞれ才能というものがあることを、その場で学んだような気がしている。
 自分から取り組んだものは何もなかったのだろうか。これを思い出すには、何日もかかった。その中からひとつ、ある日のこと、図書室に行って本を物色し、夏目漱石の『吾輩は猫である』を手にとって、始めの部分を少し読んだことがあった。その書出しにはこうあった筈である。
 「我が輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当けんとうがつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪どうあくな種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕つかまえて煮にて食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始めであろう。」
 あのとき、本を借りて帰って読んでいたとしたら、その後の私の文章づくりは少しは上達していたに違いない。
 あれは、5年生の終わりの時であったか。ある日の授業かクラスでの時間のとき、先生が後者の来側、道を隔てた田圃のあぜに、クラスのみんなを連れて行かれた。そのとき、写真屋さんが来ていてクラス写真を撮ってもらったのか、それとも他の誰かに撮ってもらったのだろうか。
 6年生の担任は流郷先生であった。先生の授業で一番覚えているのは、音楽の授業であった。6年生の音楽の授業は校舎の一番西の音楽室で行われる。先生はそこでよくクラシック音楽を聴かせていただいた。黒板の前には、蓄音機というか、マイクのところに布が張ってある機械が置かれていた。私たちは、長いすに4人ずつくらい座って、神妙な面持ちでいた。音楽室の日当たりはあまりよくない。暖かい時にはいい。しかし、冬の寒いときなどは、授業の間、両手を長椅子とおしりの間に入れる。それでも寒いので、両の足をぶるぶる振るわせつつ授業が終わるまでを過ごす。
 授業の始めには、先生が今日聞かせる曲と、簡単な作曲家の内容の説明をして下さった。先生は、それを手短にされていたようである。おそらくは、子供たちに、時間内に、できるだけのところまで、その曲を聴かせてやりたいという配慮があったのだろう。誠に、ありがたいことであった。
 それが済むと、先生は用意のLPレコードを紙セットから引き抜いて、蓄音器のそばに行き、セットされる。おもむろに針を円盤の外周部に置く。すると円盤はうねうねと回転を始める。その間「プツプツ」とも「ウーウー」とも何とも形容のつかない微かな音がしばし聞こえたものだ。その後、あるときはやんわりと、またあるときはいきなり、旋律が流れ出す。真冬の授業のときには、暖房が入っていない音楽室で、子供心には寒さを忘れて聞き惚れることは難しい。時々、「ハアー」と手に息を吹きかけては、亦両手の先をおしりの下に敷いて耳をそばだてて、そのメロディーを聞いていた。
 いまでも懐かしく想い出される曲が二つある。その1は、フランスのビゼーの『アルルの女』」、その2はシューマンの交響曲から。そして3番目の曲はドボルザークの『新世界』という曲だったか。ビゼーの曲は、晴れやかで元気がでる。舞台のアルルとは、ゴッホの田園を描いた絵にもあるように、フランス南部の温暖な村のことであろうか。シューマンの曲目はなんといったか、メロディーが小川のせせらぎのようで美しかった。ドボルザークの曲は、やや肌寒い。けれども、凍てついた冬ではなく、春を告げる調べが果てしのない草原を流れ渡ってゆくような案配にて、心がだんだんに解放されていく感じだった。
 その頃既に、何が一番好きかと聞かれたら、迷うことなく社会科であったろう。歴史を学ぶことも大好きで、そうなるきっかけが歴史年表づくりであった。 それから、日本史を学ぶとき、先生が手作りの年表を作るよう言われ、私たちは画用紙を継ぎしてそれを書き足していった。私は意気込んで、できるだけ詳しく、長い歴史年表を作っていった。おそらく「みんなも、自分でつくってみい」というのが先生の指示だったのだろう。ところが、いったん始めてみると、実に面白い。
 作り方は簡単であった。画用紙を買って、短冊のように重ね折りして使う。右の方から書き込んでいき、書きたい部分の白地を確保しながら継ぎ足しを行う。一枚の画用紙ではすぐ尽きてしまう。それなので、次から次へと新しい画用紙をのり付けして、年表を長くしていく楽しみがある。まさに自分の手で日本史の世界を少しずつ広げてゆき、そのことで自分の世界に浸る類の楽しみを得ていたのだろう。
 年表でも、自分の好きな色を時代の区分けに使った。黄色から、緑、紫、そして赤という具合に綾取っていく。「源頼朝、鎌倉幕府を開く」など大きな出来事を記すときは黒ではなく、赤字を施したりした。他の級友たちのがどうであったかは覚えていない。おそらく、家でつくっていたものだろう。自分ととってみれば楽しい。
 反省点としては、ただ事実を箇条書きにすることでは、それ以上のことは何も表現できない。当時は、織田信長は惜しいことをした、豊臣秀吉は偉くなってからおかしくなった、徳川家康は辛抱強く、最後に笑ったなどと、日本史上の3人の傑物をただ並べ立てて、「すごい」というにとどまっていた節がある。あのとき、庶民の生活がどうなっていたか、外国との関係についても興味をもっていたらもっと良かった。
 それでも、作業を進めるうちにはりあいが出て来て、それからの授業がなんだか楽しくなるから不思議だ。大げさにいうと、もやっとしたこれからへの期待と、子供心なりに生まれて初めて「創造する喜び」を知ったことになる。
 学校とは違うルートで、忘れられない事件に出くわすときもある。1962年(昭和37年)11月22日のニュースには驚いた。アメリカのケネディ大統領が婦人と一緒のオープンカーに乗ってパレードしている最中、ビルから銃撃され死んだというニュースは、当時の世界を駆け巡った。普段、テレビでニュースを見ることは少なかったにもかかわらず、そのときは日米初めての通信衛星によるテレビ中継での国際報道から、解説そして葬送へと移り変わる画面に釘付けになった。なにしろ、世界一の大国の大統領が白昼暗殺されたのだから、それから数週間というもの、テレビのチャンネルをどう回しても、その話で持ちきりの状態であったろう。彼はなぜ殺されたのか、事件の真相究明が実現しないまま、あれから50年以上が経っている。2039年には秘密文書が公開になるらしいが、あの事件は、私がアメリカという国の複雑さに魅せられるきっかけを与えた。
 そればかりではなく、先生の算数の授業は教科書にとどまっていなかった。今も私の手元に一冊の算数の問題集が残っている。こちらはボロボロに使い古されている。流郷先生の指導で課外授業をしてもらっていた。問題はひねってあるというか、なかなかに難しい。正解になるまでは何度でも挑戦する。正解となると、先生は「○」(マル)の中に「合」(合格の意味)の字の朱のゴム印があって、それを問題番号余白に押して下さる。こうなると、何度失敗してもいいのだから、何度間違ってもまた正しい答えを導き出せるまで挑戦すればよい。それが励みとなって、みんなが勉強の励むことを先生は目指しておられたのではないだろうか。
 当時の時間割はどうなっていたのだろうか。5、6年生にもなると、多い曜日には授業は6時間あったようだ。午後3時くらいであったろう。因みに欧米では、高校でも今日午後2時に終わるという話を聞いたことがある。外国帰りの家庭の子供が日本の学校に通うようになると、そのギャップに面食らうのだそうだ。
 学校の講堂を使っての課外授業もあった。1年生から6年生までの課外授業の中で印象に残っているものを二つ紹介しよう。一つは、一年先輩の児童会長の一宮さん(仮の名)が玉野の造船所に岡山のほかの小学校の代表とともに訪れ、その報告をした。スライドのようなものがドンチョー(舞台の開閉の幕)の場所に映し出されて、いろいろと彼が説明した。画面に映し出されたのは、なにしろ積載量が20万トンはあろうかという石油運搬用のタンカーである。その進水式の模様が映し出された。その船は台の上を水のある方へと進みながら、色とりどりの沢山のテープに祝福されているようだった。
 6年生も半ばになると、授業ばかりといっていられなくなっていったようだ。家に帰ってからの勉強も、6年生の卒業を間近に臨むようになってからは、卒業式の練習とか、あれやこれやで手につかない日々が続いたようだ。算数の問題集も、先生が見てくれていたのは多分2学期までだった。その1月からの3学期になると、先生方の表情も心なしか穏やかになっていた。私も、もう少しで学校を出ていく。ここを巣立っていくのだという。そう考えると、なにやらこみ上げて来る思いがあった。
 あれは、卒業式が間近い、まだ相当に寒い頃のことであったのかもしれない。流合先生が西下の我が家にこられて、「健康優良児に」推薦の話であったか、卒業式のときの何かの役のことであったのかもしれない。その頃、自分では、健康に自信はなかった。いまに記憶が残っているものに、ある冬、父がうなぎを買いに連れて行ってくれたことがある。私も父も自転車に乗って西下の西隣の掘坂であったか、うなぎ養殖場のあるところに行くと、そのおじさんの家の庭の先にある、まるで田んぼのような中に一囲みの生け簀が設けてあった。そこにはやや深いところで、細めのうなぎが数十匹もいただろうか、寒いので静かに、ゆっくりと泳いでいるように見えた。そこで、父がおじさんに言ってうなぎを2尾くらい仕入れるところを、「世の中には、こんな商売もあるんだな」という驚きの気持ちで眺めていた。その朝の出かける前の母には、「泰司に滋養をつけてやらにゃあいけんと、おとうちゃんがうなぎを食べようというとるけん」とのことであった。その頃は、なんとなく力が入らないというか、特に風邪を引いたらなかなか直らずに、ぐずぐず時を過ごしていたようであるが、きっとうなぎのタンパク質もいただいたおかげで健康を持ち直していたのであろう。
 そういうやや虚弱なことがあったとはいえ、ありがたいことに入院が必要な程の大きな病気はしていなかった。そういう次第だから、優良児の表彰状をもらったときは、「やった」とか「褒めてもらってうれしい」とかいうよりは、「本当に僕なのか、僕でいいのかな」という意外な気持ちの方がやや勝っていたのではないか。ほかに、ポケットにも入るような小型の辞書をもらっていて、そのうれしさは忘れない。これはその後長く重宝した。いまでも、こちら埼玉県の家の中のどこかに眠っている筈だ。

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