新60『美作の野は晴れて』第一部、冬の暮らし2

2014-10-01 20:04:14 | Weblog

60『美作の野は晴れて』第一部、冬の暮らし2

 冬には植物がちぢこまっているようだ。春や夏には葉が茎が根がどんどん伸びていったのに、冬になると彼らはじっと次の活躍の時期の来るまで耐えているように見える。人間も同じで、日を経る毎に寒くなっていく中、冴え返る余寒におびえるように首をすくめつつ、農作業を行うことになる。牧歌的な風景としての麦踏みなんかはその典型であって、西洋においても「一粒の麦地に落ちて死なずば唯一つにてあらん、もし死なば、より多くの実を結ぶべし」(『新約聖書』ヨハネによる福音書)と記されている。
 冬場の外での主な農作業としては、田んぼに肥えをやることがあった。農業を営むというのは自然相手の事があって、経営としては大変な営みなのである。麦を植えなかった田圃には冬の間に有機堆肥をばら撒いておく。朝方にうっすら霜が降り始める日、麦の取り入れが終わった田圃に出て、家族総出で有機堆肥を撒いておく。
 それは、牛の糞を藁にまぶして我が家の東の庭に積み上げ、発酵させたものであった。野積みの仕方はシンプルである。まず藁を三束ずつ両手で掴んで祖父に差し出す。祖父はそれを地面の上穂先を中心部に向けて、放射状に置いていく。一通り置くと、次にその上に重ねて積んでいく。祖父の作業は巧みな上、無駄というものがない。積んだ稲藁が互いに離れたり、崩れたりしないように、身長の中程のところの高さまで藁を隣と結んでおく。
 藁がある程度積み上がりだしたら、家畜の糞を満載した敷藁を載せる。その繰返しで藁済みをしていって、祖父の背丈くらいにまで藁積みが積み上がっていく。前後左右に均等に積んでいかないと、どっちかに傾いてしまう。そのため、途中で何度も側面をたたいたり、押したりして姿勢を整えている風であった。最後に藁で作った大きな帽子を載せて、できあがりとなる。祖父は、それでも側面の出っ張りを「チョッ、チョッ」と軽くたたいたり、総仕上げに余念がない。こうして、しっかりした肥藁積みをするには、なかなかの技術が必要だ。
 それを天気の日も、雨の日も、そして小雪の舞う日も、天に晒しておく。その間に、じんわりと肥えの養分が藁積みの全体に染み渡っていく。藁積みを仕掛けてから2ヶ月くらい経った頃、それを取り崩して、田んぼに運び、肥料として撒くときがやってくる。
 そのとき、藁積みの内部の温度は、底の方では摂氏八〇度くらいにもなっているというから不思議だ。積藁をめくると湯気の立ち上るものもあったものの、牛は主に草を食べているのだから、人糞に比べるとそんなに臭いものとはならないと、自分に言い聞かせていた。
 田んぼにこれを撒くときには、耕耘機のトレーラーに積んで持って行き、田圃の何カ所かに分けて置く。そいつを引っ掛け爪が付いた「フォーク」を堆肥に差し込んで「ぐい」と持ち上げる。次の動作で杖を旋回させ、堆肥をばらまく。腰を水平方向にひねるようにして、遠心力を働かせるとよい。あるいは、両方の手で「ごそっ」と取り、まだ肥えを撒いていない場所に持って行ってから、回りに人がいないのを確かめながら撒いていく。田圃の隅から隅まで満遍に行き渡るようにするのがよい。
 こうしておけば、稲にとって自分の養分となるばかりでなく、発酵肥料が分解するときに酸素が奪われて、還元状態となる。この酸素の欠乏によってコナガやヒエなどの雑草の発芽を抑えることができる。田植え時で見る限り、肥料は堆肥で作った有機肥料を用い、それを補うものとして化学肥料を用いていた。
 ところで、農家の冬の暮らしの中心は、農閑期の作業もさることながら、だんだんに現金収入を求めての農業以外の作業に従事することへと傾いていった。それでも、東北地方にみるような村をあげての出稼ぎの形態をとってはいなかった。ただ、稀に、の人や学友の中でも、父親が岡山県南部の水島工場地帯とか京阪神の都会に出稼ぎに行っているという話を聞くことがあった。
 あれは小学校の4年生から6年生の頃であったか、倉敷の金甲山、鷲羽山方面に春の日帰り遠足があった。そのとき、峠から坂道を下る観光バスの車中から、下界に広がるその「勇姿」というか、赤白まだらの高い塔が立っていたり、ギザギザ状の工場が林立していた。煙突のようなものからは白煙が空に立ち上っていた。しかも、それらの建物や付属の建造物は相互につながりをもった有機体というのがふさわしい。その施設の数々は海の入り江のような形をした広い、広い埋立て地所にびっしりと集積していた。初めて目にするその全貌に目を吸い込まれつつ、私の後ろの席からも前の席からも「わあー。すげえー」などとと、驚嘆するに十分な大パノラマだった。
 当時、この地で現金収入が得られる仕事の代表格と言えば、土木工事であったろう。公共工事で幾つもの現場があって、国や県や町から工事を請け負った会社が地域の農民を臨時雇いして工事を行っていた。私の父は、冬場の多くはその現場に雇われて、働いていた。現場は複数有り、一つが済むと他に移る。そうして、人もまた幾つもの現場を渡り歩くのだ。近くは、私のいるの小川の築堤工事場から、遠くは鳥取との県境人形峠(現在の英田郡上斎原村と鳥取県東伯郡三朝町に跨る県境の峠)の施設の建設現場まで、仕事に出かける父に母は朝早くから起きて大きめの弁当を作ってあげていた。
 小学校の放課後、冬なので道草(みちくさ)をしてゆるゆる帰るわけにはいかない。家に向かう途中、笹尾(ささお)地域付近から「東の田圃」の付近にさしかかる。すると、7、8人位の人たちが東の田んぼの小川の補修工事の現場で作業していて、その中にモンペ姿の母らしい姿を見つけるときもあった。そんなときは、あまりそっちの方を見ないようにして帰りの道を急いだこともあった。いま顧みると、なぜ堂々と胸を張って通らなかったのかと悔やまれる。もしも、皆さんと目があったら「こんにちは」と元気よく声をかけたらよかった。そうする方が、「あれ、さーちゃん、あんたの子供さんじゃないかな」などと気がついてもらって、母も喜んでくれたのではなかったかと、悔やまれる。
 当時の日本は、神武景気を経て、岩戸景気(1958年(昭和33年)6月~61年(昭和35年)11月))と、その後の調整期にあった。そして、時代は、高度成長期後半を告げるいざなぎ景気(1965年(昭和40年)10月~70年(昭和45年)7月)の入口に近づきつつあった。
 私たちの当時の勝北町においても、貨幣経済がだんだんに浸透してきていた。あれこれの食料品も、川本商店(仮の名)など、大きな店に母のお供をして買出しに行った。
「うわー、こげんようけい(たくさん)品があるんかのう。」と眼を奪われたものだ。
 とくに、即席ラーメンとかのインスタント食品には眼を奪われるような「ど派手」な包装がなされてい。家では、農作業で忙しいときは即席ラーメンに冷えたご飯を入れて煮たものをたびたび食べるようなっていたので、母がよく買い込んでいた。
 そういうことだから、農家と農協との間の農協による信用買い、掛け買いなどの濃密な関係は、しだいに後景へと退くほかはない。入れかわりに貨幣経済がどっと入ってきて、現金取引・決済で必要な生活物資をその都度調達しなくてはならない。勢い、年に一度のコメと麦の売却収入のみに頼るのではなく、農閑期に生活に足りない分を求めて日雇い仕事に精を出すようになっていた。
 私がまだ小学校に通っていた頃、我が家の一番の副業は和牛を育てることだった。ちなみに、中学に入ってからは、たばこ栽培が一番にとって変わった。和牛の飼育では、我が家に何代目かの雌の和牛がいた。朝夕は母屋の隣の納屋で檜で作った堅固な柵に囲まれて過ごしていた。しかし、農繁期になると、まだ耕耘機が家になかった頃には、役畜として主要な田んぼでの仕事に欠かせない存在だった。土起しから代掻き、そりでの荷物の運搬までその牛に大きく依存していた。
 ところで、我が家の牛にはもう一つ大きな仕事が課せられていた。ある日、獣医さんらしき人が家にやって来て、我が家の牛に「種付け」をしているようだった。そのときは、興奮を抑えるための注射もされた。それから、どのくらい経った後かは思い出せないが、やがて月満ちて、その牛が臨月を迎える頃になると、今度はいつ産気づくか、いつ生まれるかで家族一同、気になって気になって夜もおちおち眠れない日が続くのだ。
 いま思い起こしてみると、その日はたぶん12月の夜だった。獣医さんが来てくれるのを、今か今かとま家の外で待っていた。その間に夜空を見上げると、夕方の東の地平線から少し上がった辺りに、私の大好きなオリオン座がかかっていた。
 我が家の母牛が産気づいたのは、その日の夕刻になってからのことだった。納屋に見に行くと、苦しいらしく口から泡のような唾液を盛んに垂らしていた。牛の入っている納屋の広さは6畳くらいしかない。その狭い納屋に、獣医さんが父と一緒に入って牛の鼻緒を何重にも柱に結わえ付け、パンパンに張ったおなかをさすったり、牛の涙とおぼしき粘り気のある液体をタオルで拭いてやったり、下が滑らないように新しい踏み藁をかませたり、等々、ともかく忙しく立ち働いていた。
 獣医さんはと言えば、掛け持ちをしていることもあるようで、それとも何かを取りに帰ったのか、途中でしばらく消えたりしたものだが、夜の零時を過ぎて、いよいよ生まれてくるときにはちゃんと戻って来てくれた。
 私も、「ありがたい、ありがたい、どうか無事で子牛を生んでくれ」と、頭の中で反芻していた。何しろ、へたをすると親子とも台無しになってしまいかねない。母牛の命がけの出産なので、家族一同、夕食をする間も落ち着かない。食事の味もしないような緊張の面持ちで、固唾を呑んで事の成行きを見守った。
 子牛が無事生まれたのは、午前をかなり回っていた。納屋の外間近から見ていると、最初に両の足が覗いた。それからは、なかなか出てこない。母牛はますますもって苦しい声をあげて、狭い納屋の中で、「ハアハア」と冷気を白くさせている。そのとき、「ようーし、もうちょっとじや、いきんでみい」と怒号が聞こえる。父が親牛の太い首にしがみつき、獣医さんが後ろで構える。私はそれを見ているだけで、何も協力できい。
 そうこうするうち、足がもっと出てきた。そこで二人が力わ合わせて、足を引き出す。すると、「ズルズルズル」という具合で、子牛の胴体まで母体の外に出てきた。そこで、獣医さんと父が今度は子牛の胴体をつかむような姿勢になって、もう一度「オイセエー」と引っ張り出す。
 そして、とうとう丸ごと子牛を引き出して、新しいまぐさの上に横たえる。父が親牛のおしりを押して、子牛がいるところから少し離すようにし向ける。子牛は血のついたどろどろの袋をひきづっていて、それは母牛の胎盤の一部ではないかと思われる。目の前に繰り広げられている光景は実に生々しく写った。
 ほっと一息ついてしばらく後、一旦母屋に帰っていた。だが、なお気になって、牛の納屋に戻ると、母牛は横たわって眼を見開いている子牛の東部かに首のあたりを何度も何度も厚い舌でなめ回している。顔の表情はいつもの母牛に戻っている。獣医さんと父とは納屋の中で、今度は子牛の胴体を引き起こして、足を起こして立たせようとしている。
 祖父は納屋の外で、私を従えて何やらかけ声をかけ続けている。と、何度めかの挑戦のあと、生まれて半刻と経っていないうちに、子牛は4本の足を新しい藁を敷いた上に立てた。2度、3度、膝のあたりがへたりそうになるのを持ちこたえていた。だが、介添えの力に助けられたのか、その後直ぐに「すっく」と自分の足で立った。
「やった、やったぞ、これでみんな終わった。どっちも偉いぞ」
 何回かに分けて、そんな思いがこみ上げてきた。そのときの牛の母子の姿を見ていた誰もがそう言ってねぎらってやっただろう。人をして感動させるだけの、牛の新しい命の誕生であった。外へ出て、深夜の空を見上げると、あのオリオン座が頭上に移動して、夕方見たときより、さらに深い静寂をたたえ輝いていた。
 それから、私がおよそ20歳になって家を離れるまでに、子牛の誕生はそれから1、2度はあったろう。だが、そのとき初めて見た我が家の牛の出産の一部始終は、数十年を経た今でも色褪せていない。
 冬が来ると、子供の心に、多かれ少なかれ「早く春が来てほしい」との仄かな願いの灯が点灯したことだろう。冬から春への転換は少しずつ、一つひとつの事象として段階を踏んでゆくしかない。冬が到来したら、それはそれは長いトンネルに入ったようだった。それからの人々は寡黙となり、互いに体を丸めるようにして日々を過ごす。一皮また一皮と何かしら血の気がよみがえっていくのを待つ気分といったらよいのだろうか。それだけに、時々暖かな「好日」が巡ってくると、うれしい。
 冬の数少ない娯楽の随一はテレビを見ることだった。あれは小学5年生くらいになった頃だったろうか。春も近くなった頃をテーマとした心暖まる連続ドラマがあり、毎週のように楽しみにしていた。
  「雪やこんこあられやこんこ、ふってはふってはずんずん積もる、山も野原も綿帽子かぶり、枯れ木残らず花が咲く」(文部省唱歌)
 その我が家の猫はといえば、こたつの上とか、暖かいところで、毛繕いに余念がない。あのざらざらしたベロ(舌)で腕とか脚とかなめなめして、古くなった毛やまとわりついたほこりなんかをなめ取るのだ。それを見つめながら、彼と同じく暖を取っている私も、なんだか眠たくなったものである。
 私と猫がそうしている間も、祖母や母はせっせと、根気強く働いていた。
 「母さんは夜なべをして手袋編んでくれた、木枯らし(ごがらし)吹いちゃ冷たかろうてせっせと編んだだよ、ふるさとの便りは届く、囲炉裏(いろり)の匂いがした」(『かあさんの歌』、作詞・作曲は窪田聡)
 冬場の子供たちが、屋内ではまる遊びの二つ目は何だろうか。その頃の遊びといえば、トランプやすごろく、花札とか、かるたとりは、親戚の子供同士集まったときや、内では勇介君の家とかにみんなで集まって、男の子も女の子も入り交じってやっていたようだが、いまでは誰と誰がいたということでは大方忘れてしまった。それら幾つもの楽しみの中で異彩を放っていたのは、将棋であった。これはすぐ近所の敬一ちゃん(仮の名)に教えてもらった。小学校の低学年のことであった。彼は私より4歳くらいは年上であったが、きさくで、人なつっこいので、年はもいかない後輩に将棋でも教えてやろうと思い立ってくれたのではなかろうか。
 覚え立ての頃は、なかなかうまく駒を動かせなかったものの、次第に色々作戦を考えるようになれた。しかし、それ以上の上達するのは難しい。おかげで、母がまだ津山の渡辺病院に入院している頃、京町の道路の少し入ったところの民家の前で、お年寄りたちが将棋を囲んでいた。その時はまだ将棋を覚えて間がなかったようで、どんな作戦でいるのか読めないでいるうちに、指し手がどんどん進んでいくという具合であった。
 もっとも、生きているゲームの観戦なので、珍しい駒の使い方があれば、興味津々となる。それは「桂馬の高上がり」といって、駒を一つ飛び越して斜め前に進む。独特な動きをして立派な働きをする。そのかわり、逃げるのが苦手だ。極めつけは、頭に「歩」(ふ)を打たれるとピンチとなる。これは「桂馬の高飛びの餌食」とも比喩されているらしい。 そもそも、その頃の私は、テレビの将棋番組を見たり、腕を磨いたりのことはなかったといっていい。それなのに、図々しくも、おじいさんたちの「勝負の輪」に入れてもらって観ていた。もっとも、お年寄りにとっても、将棋を囲んでいるところに子供が寄ってきて、静かに対局を観戦しているのだから、拒む理由はなかったろう。ピシッという音を立てて将棋の駒が置かれると、相手の人が「フーム」と言って顔をしかめたりする。そのうち、勝負が佳境に入ってくると、考える時間が延びる。戦局の難しいことはわからないが、こちらも拳に力が入ってきて時間が経つのを忘れた。

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