○○300『自然と人間の歴史・日本篇』第一次世界大戦前後の農民などの状態

2017-08-08 21:28:04 | Weblog

300『自然と人間の歴史・日本篇』第一次世界大戦前後の農民などの状態

 1908年(明治41年)時点でみた農地の所有状況(北海道を除く)では、1ヘクタール未満の零細所有者の占める割合がずば抜けて多い。 5ヘクタール以上の農地の所有者は、約13万戸がある。ところが、同規模の農地の耕作者の数は4万2000戸である。これは、大土地所有者が貸し付け地主化している、つまり小規模農家が大地主からの貸付地で、小作料を支払って耕作していることを覗わせる。
 ところが、1908年以降になると、しだいに1から2ヘクタール前後の農地を耕作する者の数が増加していくのに対し、3ヘクタール以上の富農層とと0.5ヘクタール未満の小規模農家が減少していく。しかも、雇用労働力を雇い入れているとおぼしき5ヘクタール以上の富農としての耕作者の数は、同年4万2000戸から1918年(昭和7年)の2万5000戸、さらに1928年(昭和3年)には1万5000戸にまで減少していくのである。ただし、全農地に対する小作地の割合である、小作地率は1910年(明治43年)から1930年(昭和5年)まで45.6%から47.7%の間でほぼ安定していて、その水準は戦後の農地改革開始前まで続いたことになっている(以上の計数については、三和良一氏による『概説日本経済史第2版』東京大学出版会、1993に所収の統計:『日本農業基礎統計』、『近代日本経済史要覧』から引用させていただいた)。
 1916年(大正5年)8月、東京正米(しょうまい)平均相場(1石=約150キログラム当たり)は13円62銭であったのが、翌1917年からじりじりと上がり始める。それが、1918年(大正5年)1月には23円84銭となる。その後、今度はシベリア派兵などをあてこんだ、商人がコメを買い占めて利ざやを稼ごうしたり、地主がコメを売り惜しんだ。その結果、米の市場は品薄と成り、文字通りのうなぎ昇りになっていく。同年8月には、38円70銭の高値を付けるに至る。東京市内の小売価格は、1升(しょう)売り(約1.5キログラム)当たり50銭を超えた。全国的にも、一升が40、50銭にもなるところが多くなっていく。前年の不作が値上げ圧力に加わる中、人々の値上がり予想が高まる中、労働者一般の賃金の上昇は立ち後れ、実質所得が減っていたところへ米価が上がったことで、生活貧窮者の生活が回らなくなったことが背景にあることで、全国で共通していた。
 きっかけは1918(大正7)年7月、漁師の妻らが米の北海道への移送の中止を求めて、富山県の魚津港の米倉へ押し寄せた。これが発火点になり、富山県内の水橋や滑川を経て、全国規模に拡大した。この発端の事件を「越中(えっちゅう)女一揆」と呼ぶ。当時の「東京朝日新聞」記事に、こうある。
 「200名の女房連が 米価暴騰で大運動を起す
◇米屋や米の所有者を襲い廉売を嘆願し ◇肯〔き〕かなければ家を焼払い鏖殺(おうさつ=みなごろしにすること)と脅迫
 富山県中新川郡西水橋町町民の大部分は出稼業者なるが、本年度は出稼先なる樺太は不漁にて帰路の路銀に差し支うるありさまにて生活すこぶる窮迫し、加うるに昨今の米価暴騰にて困窮いよいよその極(きわまり)に達しおれるが、3日午後7時漁師町一帯の女房連200名は海岸に集合して3隊に分れ、一は浜方有志、一は町有志、一は浜地の米屋及
び米所有者を襲い、所有米は他に売らざることおよびこの際義侠的に米の廉売を嘆願し、これを聞かざれば家を焼払い一家を鏖殺にすべしと脅迫し事態すこぶる穏かならず、かくと聞きたる東水橋警察署より巡査数名を出動させ、必死となりて解散を命じたるにようやく午後11時頃より解散せるも、一部の女たちは米屋の付近を徘徊(はいかい)し米を他
に売るを警戒しおれり。」(出典「東京朝日新聞」1918年8月5日付け)
 富山での、この事件の勃発から始まって、一両日の間に全国津々浦々に広がっていくスピードぶりであった。同年7月22日から9月17日までの間、全国において米騒動が発生したところは49市448町村あったうち、岡山県は1市、50町村、計51市町村に跨っていて、広島県、島根県などと並んで全国トップレベルの発生件数であった。
 1929年(昭和4年)には津山町と西苫田村、二宮村、院庄村、福岡村の一町4か村が合併して、津山市が誕生した。同年、勝北郡と勝南郡とが合併して、勝田郡が誕生した。
その美作では8月8日の深夜、落合町から騒動が始まり、翌9日には、津山の南新座の米屋が春に一升25銭であった米の値段を49銭に引き上げるとの知らせが入った。これに怒った人々は、10日になると、それぞれの役場前に集まって気勢を上げたり、米屋などに押しかけたり、久世地方では、大勢が輸送中のコメを襲撃した。騒動は美作一円に広がりつつあったものの、11日になって安い外米の買付け交渉が実り、神戸から千俵が入ったことで安売り放出するに至り、かろうじて役人と商人達は難を逃れることができた。同年10月には、米穀輸入税減免令の措置がとられた。同年11月の休戦によって、日本経済は「反動不況」に入っていく。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


コメントを投稿